凌霄花(のうぜんかずら)の宿  第四章


 鬱蒼と茂る竹林の中をゆっくりと歩いていく。この竹林は弥生町の中にあるというより弥生町に平行して町と同じだけ広がっているようだ。相当に大きい林だと言うことは昨日の経験で判っていたから、私はのんびりと焦らず歩いていった。
「そろそろ見えてもいい頃だが」
 そう呟いた時雲の切れ間から月が顔を出す。月の明かりは竹林の中へはあまり差し込んで来なかったが、それでもないよりはマシなようで、その証拠に行く手に昨日見つけた凌霄花のオレンジ色の花が浮かび上がっているのが見えた。
「今日はここにはいないのか」
 もしかしたらまたここにいるかもしれない。どこかでそんな期待をしていたようで、私は彼の姿が見えないことに落胆する。そんな自分の心の動きに気づけば、思わず自嘲めいた笑みが唇に浮かんだ。
「入口はどこだ?」
 凌霄花の花をまとわりつかせた高い塀に沿って歩いていく。程なくして見つけた入口は、だが板が打ちつけてあって入ることが出来なかった。
「…………」
 ふぅと一つ息を吐いて、私は他の入口を探して歩き回る。だが、ぐるりと一周しても他に裏木戸などの入口は見つからず、私は最初に見つけた入口まで戻ってくると黒々とそびえ立つ屋敷を見上げた。
「まさか本当に幽霊なんて事はあるまいな」
 塀を乗り越えようにも足場になるものがない。凌霄花に掴まってよじ登る訳にもいかず、幽霊なら封鎖された入口も難なく通れるかもなどと馬鹿な考えが頭をよぎり、私は頭を振ってその考えを押し出した。それでも中に入れないのではどうしようもない。発火布を持ってくればよかったとほんの少し後悔しながら何の気なしに手を伸ばした私は、打ちつけられた板が触れた途端、カタンと音を立てて外れたのを見て目を丸くした。
「な……載せてあっただけ?」
 恐らくかつてはちゃんと打ちつけてあったのだろう。だが、今は誰かの手で一度外され、その後外していないように見せかけていただけのそれに私はやれやれとため息をついた。
「全く、注意力不足もいいところだ」
 こんな初歩的なところを見落とすとは、探偵としてあるまじきことだ。私は内心自分を叱責すると木戸を押し開いて中へと入った。
 塀の内側には雑草が生い茂る庭が広がっていた。ところどころ残る飛び石を辿って屋敷へと近づく。今度は躊躇わずにガラス張りの引き戸を引いて私は屋敷の中へと足を踏み入れた。月明かりすらない室内は昏く沈んで私は暗さに目が慣れるのを待つ。ようやく室内の様子がぼんやりと見て取れるようになって、私はゆっくりと足を踏み出した。畳敷きの家の中を下駄のまま一歩一歩慎重に歩く。廊下沿いに並ぶ部屋を一つずつ覗いてみたが、幽霊どころか鼠一匹見あたらなかった。だが、入口に細工がしてあったことを考えれば中に誰かいることは間違いない。
(私が入ってきたことに気づいたんだろうか)
 もしかしたらどこか物陰で私の様子をうかがっているのかもしれない。私は少し悩んで、足を止めると暗闇に沈む屋敷の中に向かって言った。
「おい、そこにいるなら隠れてないで出てこい。なにもしない、話をしたいだけなんだ」
 そう言って少し待ったが誰かが出てくる気配はない。仕方なしに再び足を踏み出したとき。
 カタンと微かな音が聞こえる。ハッとして音がした方を見れば、闇の中何かが翻るのが見えた。
「待てっ」
 短く叫んで後を追う。誰とも判らぬ相手が廊下の角を曲がるのが見えたとき、翻ったのが着物の(たもと)だと気づいた。
「頼むっ、待ってくれ!」
 タタタと走る音に続いてギシギシと何かが鳴る音がする。キョロキョロと辺りを見回した私は、戸棚の陰に隠れるようにして上に上がる細い階段があるのに気づいた。
「あそこか」
 小さく呟き後を追う。階段を軋ませて上がった先は何もない畳敷きの部屋だった。大きな窓から射し込む月明かりに照らされて佇む後ろ姿に、私は一瞬目を瞠りそれから声をかけた。
「おい」
 私の声に濃紺の着流しをまとった肩がビクリと震える。それから彼は観念したようにゆっくりと振り向いた。
 月の光を受けて金色に輝く髪、その髪に縁取られた顔は雪のように白かった。彼は色の薄い瞳を僅かに見開いて私を見つめる。暫くの間、私達は何も言わずに見つめ合っていたが、先に口を開いたのは私の方だった。
「私は増田絽音、西ノ宮で探偵をしている。ここへは弥生町の商店主達の依頼で幽霊の調査にやってきた」
 そう説明する私の言葉を彼は何も言わずに聞いている。ふと、彼は日本語が判るのだろうかという疑問が湧いて、私は尋ねた。
「私の言っている事が判るか?」
 そう言ってからもしかしたらこの質問の意味も判らないかもしれないと気づく。だが彼は軽く首を振って答えた。
「オレは幽霊なんかじゃないっス」
 その言葉がなくても彼が生きた人間であるのは明らかだった。
「ここで何をしている?ここは君の家ではないだろう?」
 そう尋ねれば彼は困ったように視線をさまよわせる。それからキュッと唇を噛んで言った。
「ごめんなさい、すぐに出ていくっスから」
 彼は早口に言って降り口に向かおうとする。私は横をすり抜けようとする彼の腕を咄嗟に掴んで言った。
「待て!別に出ていけと言ってるわけじゃない」
「でも頼まれて来たんしょ?追い出せって言われたんじゃないんスか?」
 私の短い説明からそう結論づけたらしい彼が言う。私は苦笑して答えた。
「この家に住み着いているのが幽霊なのか、はっきりさせて欲しいと言われただけだ。幽霊じゃないと判ればそれでいい」
 そう言う私を彼は不安そうに見る。間近で見て初めて、私は彼の瞳が綺麗な空色だと気づいた。
「でも……アンタをここに寄越した人達はオレがここにいることで迷惑してるんじゃないんスか?」
「そうだな、君の正体が判らなくて妙な噂がたっていることは確かだ。だが、私が戻って説明すればなんの問題もなくなる」
 何故だか彼を行かせたくなくて私はそんな言葉を口にする。私は彼の腕を掴んだまま空色の瞳を見つめて尋ねた。
「名前を教えてくれないか?」
「……(ジャン)
「どこから来た?どうしてここにいる?」
 続けてそう尋ねたが、(ジャン)は困ったように俯いたきり答えない。確かに会ったばかりのよく知りもしない男相手にぺらぺらと答えられる筈もなく、私は苦笑して言った。
「そう簡単に答えられる筈もないか、悪かった」
 そう言えば(ジャン)が弾かれたように顔を上げる。「あのっ」と何か言いかけようとした(ジャン)の腹がギュルルと盛大な音を立てた。
「わっ」
 腹の虫が鳴り響いて(ジャン)は顔を真っ赤に染める。その表情がやけに幼く見えて、不意に守ってやりたいという感情が湧き上がった。
「腹が空いてるのか?」
「あ、あんまり食べるものがなくて……」
 確かにこんなところに身を潜めて、食事はどうしているのだろう。不思議に思って聞けば(ジャン)は恥じ入ったように小さな声で答えた。
「その……夜中に…食堂の裏に捨ててあるのを……」
「残飯を漁ったのか?」
「残飯っていうかっ、殆ど手つかずのまま捨ててあったから……その…すんません……」
 幽霊騒ぎで客足が遠のき、仕込んだものの捨てるしかない店の都合もあったのだろう。幽霊を見たと言った何人かはその時の(ジャン)の姿を見たのかもしれなかった。
「この暑い中、よく腹を壊さなかったな」
「はあ、腹、丈夫だから」
 そんな風に答えるから思わずクスリと笑えば、(ジャン)がムッと顔を赤らめる。私は宥めるように掴んだ腕を叩いて言った。
「腹が減ってるなら食べに行こう。弥生町は無理でも西ノ宮の店なら開いているところもあるだろう」
 そう言って促すように腕を引こうとした私の手を、(ジャン)が不意に跳ね退ける。私から逃げるように数歩後ずさって言った。
「嫌っス」
(ジャン)?」
「だって、あの人に見つかったら」
「あの人?あの人って誰のことだ?」
 怯えたように口走る(ジャン)に問い返せばハッとして手で口を覆う。ふるふると首を振った(ジャン)がパッと身を翻して逃げようとするのを、私は咄嗟に腕を掴んで引き留めた。
(ジャン)!」
「やだっ、離してッ!」
 逃げようとしてもがくのを無理矢理に引き戻す。逃げようとする(ジャン)と逃がすまいとする私はもつれ合うようにして床に倒れ込んだ。
「あっ」
「つぅッ」
 倒れた拍子に肩を打ちつけて、痛みに顔を歪める私の腕から(ジャン)が逃げだそうとする。思わず目の前の足首を掴めば(ジャン)の唇から悲鳴が上がった。
「嫌ッ!」
 叫んで暴れた(ジャン)の着流しの裾が乱れて白い脚が剥き出しになる。月の光の中濃紺の裾から覗く脚の艶めかしさに思わず息を飲めば、(ジャン)が目を見開いて私を見上げた。まるで無理矢理手籠めにでもするような体勢に私も(ジャン)も凍り付いてしまう。その時、どこからか聞こえた犬の吠え声に呪縛が解けて、私は慌てて(ジャン)の上から退()いた。
「……すまん」
 私が身を起こせば(ジャン)が慌てて裾の乱れを直す。立ち上がるのに手を貸そうとしたが、(ジャン)は首を振ってそれを拒んだ。
「悪かった、お前をどうこうしようと思った訳じゃない、本当だ」
 それは本心だったが今ここでは言い訳のようにしか聞こえない。私は俯いて小さく身を縮こまらせる(ジャン)を見つめて言った。
「依頼人には幽霊はいなかったと伝えよう。お前がここにいられるよう、うまく取り計らうようにする」
 そう言えば(ジャン)が驚いたように私を見る。見開く空色を見つめて私は続けた。
「明日の夜、何か食べるものを持ってくる。いいだろう?(ジャン)
 尋ねる言葉に(ジャン)は目を見開いたきり答えない。私はそれを了承の意味だと勝手に解釈すると「明日来る」と言いおいてその場を後にした。


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