そうやって立ち尽くしていたのは時間にしてどのくらいだったのだろう。俺はハッと我に返るとベッドにぐったりと横たわる雀の顔を覗き込む。うっすらと目を開いて浅い呼吸を繰り返している雀の頬を俺はそっと撫でた。
「大丈夫か?雀」
「真栖……」
微かな声で俺を呼ぶ雀に俺は口づける。舌を絡めて呼吸ごと雀の唇を貪れば、漸く気持ちが落ち着いてきた。
「雀鈴は……?」
ぼんやりと俺を見つめて雀が尋ねる。俺は雀を殺そうとしていた雀鈴の姿を思い出して忌々しげに呻いた。
「出ていった、アイツよくもあんな事を……」
雀を殺そうとするなんて赦せない。その後俺がしたこともまた脳裏に浮かんだが、雀にしたことを考えれば当然の報いだと思った。
「雀、ここを出るぞ」
「え……?」
そう言えば雀が不思議そうに俺を見る。俺は雀の頬を撫でながら優しく笑いかけた。
「大丈夫だ、なにも心配しなくていいから」
「真栖……?」
まだ殺されかかったショックから抜け出ていない雀がぼんやりとした調子で俺を呼ぶのに口づけで答えて、俺はベッドから離れた。抽斗の中から封筒を取り出し中から小さな包みを出す。そっと包みを開けば錠剤が出てきた。水差しの水をコップに注ぎ錠剤を一粒落とす。錠剤は小さな泡を出しながらあっと言う間に水に溶けた。
「これを飲むんだ、雀」
俺は雀のところへ戻ると上体を起こしてやる。口元にグラスを当てれば雀が僅かに眉を寄せた。
「なに、これ……?」
「いいから、心配するな」
そう言いながらコップを傾ければ口の中に流れ込む水を雀は否応なしに飲んでしまう。じっと見つめる俺の視線の先で雀の呼吸が次第にゆっくりとなり瞼が閉じていった。空色の瞳が瞼の陰に隠れ、俺の腕を掴んでいた雀の手から力がぬけてパタリとベッドに落ちる。俺は雀の呼吸が間遠く深いものになったのを確かめてその躯をベッドに横たえた。クローゼットの中から大きなトランクを引っ張りだして蓋を開ける。内側に張られている柔らかいクッションと空気穴の具合を確かめて、俺は雀のところへ戻った。
「雀……俺の故郷に連れていってやる」
俺は雀にそう囁いて眠る躯を抱き上げる。膝を抱えるように躯を丸めさせて俺は雀の躯をトランクに納めた。
「ちょっと窮屈だろうが少しの間だ、我慢してくれ」
白い頬にキスを落として俺は雀の顔を見つめる。もっと見つめていたい気持ちをこらえて俺はトランクの蓋を閉めた。カチリと鍵をかけて、俺は部屋の中をグルリと見回す。薬が入っていた封筒をポケットに突っ込み所持品を小さな鞄に纏めて、俺は残したものがないことを確かめると鞄とトランクを手に部屋を出た。ふと気になって雀鈴の部屋の扉を見やったが、部屋の中からは何の音も聞こえなかった。トランクと鞄を手に足早に階段を降りる。玄関まで来た時、夫人が姿を現した。
「真栖、行くのね」
「はい」
残念そうな顔をする夫人に俺は笑って見せる。
「またすぐお会いすることになると思いますから」
心にもないことを口にすれば夫人も笑みを浮かべた。
「雀鈴はともかく雀はどうしたのかしら」
娘が出てこないのは不貞腐れているからだろうが、息子が姿を現さないのを訝しんで夫人が言う。使用人に呼びに行かせようとするのを制して俺は言った。
「俺がいない間も飲めるようにと薬を処方したついでに挨拶してきましたから」
「あら、そうなの?」
「今度会うまでには元気になって欲しいですからね」
俺はそう言って使用人があけてくれた扉から外へ出る。玄関先に停めてある車に歩み寄ると後部座席にそっとトランクを置いた。
「お世話になりました。ご主人にくれぐれもよろしくお伝えください」
「本当にごめんなさいね。お帰りをお待ちしているわ、真栖」
そう言う夫人に笑って俺は運転席に乗り込む。軽く会釈してハンドルを握るとアクセルを踏み込んだ。車はゆっくりとスピードを上げ屋敷から離れていく。俺は一気にスピードを上げたい気持ちを抑えてミラーの中の屋敷が小さくなっていくのを見つめていた。
途中郵便局に寄って局留めの郵便物を受け取る。トランクの雀の様子を確かめてから俺は再びハンドルを握った。もうどこへも寄り道せず、俺は一直線に港を目指す。一分でも一秒でも早く船に乗ってしまいたかった。気がつけば晴れ渡っていた筈の空は低い雲が垂れ込めて、夕刻に向かって刻々と暗さを増していた。俺は車を走らせながら段々と何かに追われているような気になってくる。知らずアクセルを踏み込む足に力が入ってきたのを、意識して抜こうとした俺の耳に。
『真栖』
不意に聞こえた声に俺はギクリと身を震わせる。そうすれば再び今度は耳元で声が聞こえた。
『真栖』
捨ててきた女の声に俺は正面を睨み据えてギリと歯を食いしばった。
「消えろ」
雀鈴が死んだのか、そうでないのか俺には判らない。だが、雀を手にするためには悪魔に魂を売り渡しても構わないと決めたのだ。
低く告げた俺の声に気配は霧散して消える。
俺はもう迷うことも怖れる事もなく、港目指して車を走らせていった。 |