凌霄花(のうぜんかずら)の宿  第二章


「まったく酷い目にあった……」
 私はずっしりと重く水を含んで脚にまとわりつく袴を忌々しげに蹴り上げながら玄関のステップを上がる。鍵を開けて中に入ると下駄のままフローリングとかいう板張りの廊下を風呂場に向かって歩いた。
 私の家は個人の家では珍しい洋風建築だ。西洋かぶれの父が建てたこの屋敷に私は一人で住んでいた。二階建ての屋敷は一人で住むには広すぎたが、仕事と趣味で山ほどの書物を抱えた身としては置き場に困らなくて丁度いい。日本家屋と違い土足で入れる屋敷は、こんな濡れ鼠の時には至極都合がよかった。
 風呂場に入ると袴に続いて袷とスタンドカラーのシャツを脱ぎ捨てる。通いの家政婦が沸かしてくれていた風呂の湯を手桶で掬って体にかければ、ホッと体から力が抜ける気がした。手早く体と髪を洗い広い湯船にゆったりと浸かる。暑い季節でも風呂に浸かるのは気持ちがよかった。
 ゆっくりと温まって風呂から出ると浴衣を羽織る。保冷庫から麦酒を取り出し一気に飲み干せば漸く人心地ついた気がした。
「それにしてもさっきのアレはなんだったんだろう……」
 今度はグラスに注いだ麦酒をゆっくりと味わいながら私は呟く。目を閉じれば暗闇の中鮮やかに浮かび上がる凌霄花の花と金色の髪に縁取られた白い顔が浮かんだ。
「幽霊…?」
 そう音にして出せば、長年の勘が違うと告げる。あの青年には幽霊とやらが恐らくは持っているであろう積年の怨みとか自分の死を受け入れられずに生者に対してお門違いの憎しみを募らせているとか、そういった負のイメージは全く感じられなかった。彼を包むのは、そう、深い哀しみだけだった。
「しかし、彼が幽霊でないとして、どこへ消えてしまったんだろう。そもそも彼はどこの誰なんだ?」
 着ていた着物は深い藍色で闇に紛れてしまうにしても、彼のあの輝く髪だけは見失う筈もないのに。
 考えれば考えるほど金色に縁取られた彼の姿が鮮やかに目の裏に浮かび上がって消えなくなる。
「…………」
 私は頭を緩く振ってその面影を頭の中から閉め出すと、窓越しに闇の中降り続く雨を見上げたのだった。


 夕べはあまり眠れなかった。今は大きな仕事も抱えてないし一日くらいサボってしまおうかとも思ったが、そんなことをすれば李紗(リザ)に何を言われるか判らない。私はひとつため息をつくと、お茶だけ啜って家を出る。袂に手を突っ込んでのんびりと歩けば行き交う女性達が朝の挨拶を寄越してきた。それににこやかに微笑んで“おはよう”と返す。女性というのはいいものだ。華やかな容姿と愛らしい立ち居振る舞いでどんな時でもこちらの気分を明るくしてくれる。寝不足の頭が少しばかりシャッキリして辿り着いた事務所の扉を開いた途端、風梨井(フュリー)の声が飛び出してきた。
「所長!大変ですよっ」
 何事かと尋ねれば風梨井(フュリー)は興奮した面もちで答える。
「昨日幽霊が出る屋敷の話をしたでしょう?本当に屋敷に幽霊が出るのか調べてほしいって」
 所長室に入る私の後をついて風梨井(フュリー)達がぞろぞろと一緒に入ってくる。私は椅子に腰を下ろすと部下達を見回して言った。
「その幽霊なら昨日見たぞ」
「えっ?所長、やっぱり見に行ったんですかッ?」
「あんだけ人の怨み買っといて一人で幽霊見に行くなんて、やっぱ並の神経じゃないですね」
「だからいつ私が人の怨みを買ったと言うんだ!」
 呆れたような武伶田(ブレダ)の言葉に私はムッとして言い返す。昨日から大概失礼な奴だと睨めば武伶田(ブレダ)が言った。
「だってこの間も彼女盗られたって奴が怒鳴り込んできたばかりじゃないですか」
「あれは私のせいじゃないぞ。そもそも彼女とは一度しか話したことがないんだから」
 つい先日、事務所に若い男が私に恋人を盗られたと言って怒鳴り込んできたことがあった。だが、私はたまたま隣り合わせた茶屋の席で彼女が着ていた着物をよく似合うと褒めただけに過ぎないのだ。
「どうせその時過剰ににこにこしてみせたんでしょう」
「あのなぁっ」
 ほんとタラシなんだから、と頷きあう部下達に思わず声を張り上げる。それでもここで言い合っていてもキリがないので、私は不本意ながらもその話をひとまずおくと、依頼の内容を確かめた。
「それで?幽霊がいるか確かめてくれというのは誰の依頼なんだ?」
「ああ、はいはい」
 私の言葉に風梨井(フュリー)が慌てて書類をめくる。「ええと」と考える間に、後から所長室に入ってきた李紗(リザ)風梨井(フュリー)の手から書類を取り上げて言った。
「依頼主はあの竹林の裏手に店を構える商店主達です。幽霊の噂がたってから夜になると客足が途絶えてさっぱり商売にならないから、幽霊なんていないと証明して欲しいそうです」
 李紗(リザ)はそう言って書類を風梨井(フュリー)に返す。「すみません」と頭を掻く風梨井(フュリー)に視線だけで微笑んで、李紗(リザ)は私を見つめた。
「ご自分で調べるおつもりですか?」
「当然だろう?丁度夕べそれらしい姿も見たことだしな」
 にこにこと笑って答えれば李紗(リザ)がため息をつく。
「幽霊の調査なんて所長自らお出ましにならなくても───」
「いやっ、やっぱ幽霊なんて俺達には荷が重すぎますよっ!」
「僕たちみたいに繊細な神経の持ち主に幽霊はちょっと!」
「所長なら今更恨まれる相手が一人くらい増えたってどうってことないでしょう!」
「……お前達」
 李紗(リザ)の言葉を遮って騒ぐ部下達に思わずこめかみがヒクついてしまう。それでもこれを幸いと言わずにはおれず、私はにっこりと李紗(リザ)に笑って言った。
「どうもこいつ等は当てにならんようだよ」
「まったくもう」
 李紗(リザ)は私と部下達の両方に対してため息をつく。それでもここは私が行くことに渋々ながらも納得したようで、私を見て言った。
「仕方ありませんね、それじゃあこの件は所長にお任せするということで構いませんか?」
「うん、構わないよ」
 笑って頷く私に李紗(リザ)は眉を顰める。
「くれぐれも危ない真似だけは」
「大丈夫。それにそんなに悪さをするような幽霊には見えなかったからね」
 そう答える私に武伶田(ブレダ)達が興味津々といった体で身を乗り出してきた。
「そういや見たっていいましたね?どんな感じでした?」
「やっぱりすっごく怖かったでしょう?」
「どこで見たんです?屋敷の中から追っかけてきたんですか?」
 怖がっているくせにこうして聞いてくるあたり、やはり私の部下なのだろう。李紗(リザ)ですら私の言葉を待っていることに気づいて、私は椅子に背を預けて皆の顔を見回した。
「それは見事な凌霄花が咲いていてね、その側に立っていたんだよ」
「外に立ってたんですかっ?」
「ひぇぇっ!追っかけて来るかもしれないじゃないですかっ!」
 私の言葉に武伶田(ブレダ)達が飛び上がる。「こえぇっ!」と叫ぶ男達とは対照的に落ち着いた声で李紗(リザ)が尋ねた。
「話しかけてみたんですか?」
 その言葉に男達が「ギャーッ!」と騒ぐ。煩いなと睨んでおいてから私は首を振った。
「いや、近づこうとしたら突然大雨が降り出して雷がなってね。次の瞬間にはいなくなっていた」
「やっぱり幽霊だッ!」
「所長が来たから逃げたんだッ!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ部下達の傍らで李紗(リザ)が首を傾げる。
「それじゃあ幽霊かどうか、判りませんわね」
「もう一度調べに行ってくるよ」
「お願いします。くれぐれもお気をつけて」
 そう言う李紗(リザ)に頷いて、私は何故だかワクワクしながら窓の外の青空を見上げたのだった。


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