| 「まったく酷い目にあった……」 私はずっしりと重く水を含んで脚にまとわりつく袴を忌々しげに蹴り上げながら玄関のステップを上がる。鍵を開けて中に入ると下駄のままフローリングとかいう板張りの廊下を風呂場に向かって歩いた。 私の家は個人の家では珍しい洋風建築だ。西洋かぶれの父が建てたこの屋敷に私は一人で住んでいた。二階建ての屋敷は一人で住むには広すぎたが、仕事と趣味で山ほどの書物を抱えた身としては置き場に困らなくて丁度いい。日本家屋と違い土足で入れる屋敷は、こんな濡れ鼠の時には至極都合がよかった。 風呂場に入ると袴に続いて袷とスタンドカラーのシャツを脱ぎ捨てる。通いの家政婦が沸かしてくれていた風呂の湯を手桶で掬って体にかければ、ホッと体から力が抜ける気がした。手早く体と髪を洗い広い湯船にゆったりと浸かる。暑い季節でも風呂に浸かるのは気持ちがよかった。 ゆっくりと温まって風呂から出ると浴衣を羽織る。保冷庫から麦酒を取り出し一気に飲み干せば漸く人心地ついた気がした。 「それにしてもさっきのアレはなんだったんだろう……」 今度はグラスに注いだ麦酒をゆっくりと味わいながら私は呟く。目を閉じれば暗闇の中鮮やかに浮かび上がる凌霄花の花と金色の髪に縁取られた白い顔が浮かんだ。 「幽霊…?」 そう音にして出せば、長年の勘が違うと告げる。あの青年には幽霊とやらが恐らくは持っているであろう積年の怨みとか自分の死を受け入れられずに生者に対してお門違いの憎しみを募らせているとか、そういった負のイメージは全く感じられなかった。彼を包むのは、そう、深い哀しみだけだった。 「しかし、彼が幽霊でないとして、どこへ消えてしまったんだろう。そもそも彼はどこの誰なんだ?」 着ていた着物は深い藍色で闇に紛れてしまうにしても、彼のあの輝く髪だけは見失う筈もないのに。 考えれば考えるほど金色に縁取られた彼の姿が鮮やかに目の裏に浮かび上がって消えなくなる。 「…………」 私は頭を緩く振ってその面影を頭の中から閉め出すと、窓越しに闇の中降り続く雨を見上げたのだった。 夕べはあまり眠れなかった。今は大きな仕事も抱えてないし一日くらいサボってしまおうかとも思ったが、そんなことをすれば 「所長!大変ですよっ」 何事かと尋ねれば 「昨日幽霊が出る屋敷の話をしたでしょう?本当に屋敷に幽霊が出るのか調べてほしいって」 所長室に入る私の後をついて 「その幽霊なら昨日見たぞ」 「えっ?所長、やっぱり見に行ったんですかッ?」 「あんだけ人の怨み買っといて一人で幽霊見に行くなんて、やっぱ並の神経じゃないですね」 「だからいつ私が人の怨みを買ったと言うんだ!」 呆れたような 「だってこの間も彼女盗られたって奴が怒鳴り込んできたばかりじゃないですか」 「あれは私のせいじゃないぞ。そもそも彼女とは一度しか話したことがないんだから」 つい先日、事務所に若い男が私に恋人を盗られたと言って怒鳴り込んできたことがあった。だが、私はたまたま隣り合わせた茶屋の席で彼女が着ていた着物をよく似合うと褒めただけに過ぎないのだ。 「どうせその時過剰ににこにこしてみせたんでしょう」 「あのなぁっ」 ほんとタラシなんだから、と頷きあう部下達に思わず声を張り上げる。それでもここで言い合っていてもキリがないので、私は不本意ながらもその話をひとまずおくと、依頼の内容を確かめた。 「それで?幽霊がいるか確かめてくれというのは誰の依頼なんだ?」 「ああ、はいはい」 私の言葉に 「依頼主はあの竹林の裏手に店を構える商店主達です。幽霊の噂がたってから夜になると客足が途絶えてさっぱり商売にならないから、幽霊なんていないと証明して欲しいそうです」 「ご自分で調べるおつもりですか?」 「当然だろう?丁度夕べそれらしい姿も見たことだしな」 にこにこと笑って答えれば 「幽霊の調査なんて所長自らお出ましにならなくても───」 「いやっ、やっぱ幽霊なんて俺達には荷が重すぎますよっ!」 「僕たちみたいに繊細な神経の持ち主に幽霊はちょっと!」 「所長なら今更恨まれる相手が一人くらい増えたってどうってことないでしょう!」 「……お前達」 「どうもこいつ等は当てにならんようだよ」 「まったくもう」 「仕方ありませんね、それじゃあこの件は所長にお任せするということで構いませんか?」 「うん、構わないよ」 笑って頷く私に 「くれぐれも危ない真似だけは」 「大丈夫。それにそんなに悪さをするような幽霊には見えなかったからね」 そう答える私に 「そういや見たっていいましたね?どんな感じでした?」 「やっぱりすっごく怖かったでしょう?」 「どこで見たんです?屋敷の中から追っかけてきたんですか?」 怖がっているくせにこうして聞いてくるあたり、やはり私の部下なのだろう。 「それは見事な凌霄花が咲いていてね、その側に立っていたんだよ」 「外に立ってたんですかっ?」 「ひぇぇっ!追っかけて来るかもしれないじゃないですかっ!」 私の言葉に 「話しかけてみたんですか?」 その言葉に男達が「ギャーッ!」と騒ぐ。煩いなと睨んでおいてから私は首を振った。 「いや、近づこうとしたら突然大雨が降り出して雷がなってね。次の瞬間にはいなくなっていた」 「やっぱり幽霊だッ!」 「所長が来たから逃げたんだッ!」 ぎゃあぎゃあと騒ぐ部下達の傍らで 「それじゃあ幽霊かどうか、判りませんわね」 「もう一度調べに行ってくるよ」 「お願いします。くれぐれもお気をつけて」 そう言う |
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