「まあ、大変」
雷の音も遠ざかり雨足も弱くなってきたのを見計らって屋敷に戻れば、ぐっしょりと濡れそぼった俺たちを見て夫人が目を丸くする。
「暖まらないと幾ら夏でも風邪をひくわ。急いでお湯の用意をして!」
夫人はメイドに風呂の用意をするように命じて、俺達には乾いたタオルやブランケットを差し出した。
「脱げるものは脱いで、お湯の用意ができるまでこれにくるまっていて。何か温かい飲み物を用意させましょうね。寒くないかしら?」
「大丈夫です。頑丈にできてますからご心配なく」
なにくれと世話を焼いてくれる夫人に礼を言えば、傍らで雀が大きなクシャミをする。持っていたタオルで雀の金髪を拭いてやっていると雀鈴の声が聞こえた。
「真栖!びしょ濡れじゃないの、大丈夫っ?」
「雀鈴」
少女は駆け寄ってくると俺が何か言う前に、ぐっしょりと濡れた弟を睨んで言った。
「アンタが真栖を無理矢理遠乗りに誘ったりするからよ!行きたきゃ一人で行けばいいでしょッ!私に黙って真栖を連れ出して、真栖が肺炎でも起こしたらどうしてくれるのッ?!」
「ごっ、ごめん、雀鈴……でも、雨が降るなんて思わなかったし」
姉のもの凄い剣幕に雀は目を丸くする。小さな声でそう言いかけた雀に、雀鈴はキッと目を吊り上げて言った。
「そういうところがアンタは考えが足りないって言うのよ!ホントにアンタって子は───」
「その辺にしておけ、雀鈴」
俺はもの凄い勢いで弟を怒鳴りつける雀鈴の腕を掴む。雀鈴は不満げに俺を見上げて言った。
「だって!凄い雨と雷で心配したのよ。私を置いて二人で行ってしまうし、幾ら雀に無理矢理連れ出されたからって私をのけ者にするなんて!」
「雨で濡れただけだろう?風呂に入ってあたたまればどうってことない。それに」
と、不機嫌の一番の理由はどうやら置いてきぼりを食らったことらしいと気づいて俺は言った。
「俺から雀を遠乗りに誘ったんだ。お前の弟なんだ、仲良くなっておきたいだろう?」
「……真栖」
優しく笑いかけて少女の頬を撫でれば雀鈴は顔を赤らめて口を噤む。雀鈴の金髪を胸に抱き寄せた時、メイドが風呂の用意ができたと告げに来た。
「さあさ、二人とも、早く暖まってらっしゃい。本当に風邪をひくわ」
夫人がそう言ったのを機に、俺と雀は風呂に入るためにそれぞれの部屋に向かった。
その日、雀鈴は俺にべったりとくっついて離れなかった。余程自分一人置いてきぼりを食ったのが業腹だったらしく、雀を一切俺に近づけようとしなかったので俺は雀と一言も言葉を交わすことが出来なかった。
「今度は私も一緒に連れていってね、真栖」
「それはいいが、お前、馬に乗れるのか?」
連れていくのはいいが、馬に乗れないのでは話にならない。そう思って尋ねれば、案の定雀鈴は困ったように黙り込んだ。
「雀鈴?」
「馬は苦手なの」
「どうして?賢いし、可愛いじゃないか」
おそらく乗馬は良家の子女の嗜みとして教えられているだろう。実際雀の乗馬の腕前は大したものだったし、雀鈴の性格なら弟に負けるまいと頑張りそうなものだった。
「小さいときに振り落とされた事があるの。それ以来馬は苦手。それに、うちの馬ってみんな雀に懐いてるんだもの」
可愛くないわ、と唇を尖らせる雀鈴に思わず吹き出せば空色の瞳が睨んでくる。
「睨むなよ」
「いいじゃない、馬なんて乗れなくても」
ニヤニヤと笑えば不貞腐れたように言う雀鈴に俺は言った。
「別に乗れないならそれで構わないが、それなら俺と雀が遠乗りに出かけても文句を言うなよ」
むしろ雀鈴が馬に乗れないというなら好都合だ。内心そう思いながら言えば、雀鈴が少し考えて言った。
「真栖が一緒に乗せてくれればいいのよ。そうしたら私だって一緒に行けるわ」
「おいおい、それじゃ遠乗りなんて出来ないだろう?」
「じゃあ遠乗りに行かなければいいでしょう」
我儘な少女はそう言って俺にしがみつく。
「雀と一緒にいるより私と一緒にいて」
その言葉に俺は苛立ちを感じながら、しがみついてくる雀鈴の体を抱き締めていた。
その日の夕食の席に雀は現れなかった。弟の不在などまるで気にする風もなく話しかけてくる雀鈴を遮って、俺は夫人に尋ねる。
「雀は?どうかしたんですか?」
「……それが少し熱っぽいみたいで。でも、大したことありませんから一晩寝れば治りますわ」
申し訳なさそうに夫人が言えば雀鈴がツンと顎を突き出して言った。
「自業自得よ。私に黙って真栖を連れ出したりするから」
「雀鈴、いい加減になさい」
「だって」
「雀鈴」
流石に目に余ったのだろう、夫人にピシャリと言われて雀鈴が押し黙る。ガタンと席を立って食堂を飛び出していってしまう娘に、夫人はため息をついて言った。
「ごめんなさい、真栖。あの子、どうも昔から雀に張り合うところがあって」
「気にしないでください。俺もちゃんと雀鈴に声をかけてから出かければよかった」
口ではそう言いながら俺は今後も雀鈴に声をかける気はなかった。我儘娘の身勝手につきあう気などさらさらない。
そんな風に思って、俺は今では自分の気持ちが雀鈴に全くない事に気づく。
(どうするつもりだ?俺は……)
話しかけてくる夫人に適当に相槌をうちながら、俺は自分の気持ちを測りかねていたのだった。
部屋に戻ってからも俺の心を占めていたのは雀のことばかりだった。初めて出逢った時の、驚いたように振り向いた雀が浮かべた鮮やかな笑顔。小鳥と戯れる時の無邪気な顔。空に向かって突き出された白い腕。馬と一体になって走る雀のしなやかな身体。初夏の風に金色の髪を嬲らせて目を閉じる白い横顔。空を映し出したような澄んだ瞳、蜂蜜色の髪。雀鈴と同じ顔かたちであるにも関わらず、二人が並んで立てば少女は酷く色褪せて見えた。今では俺の心を占めるのは雀一人だけだった。
「くそ……」
このまま雀鈴と結婚したところで、近い将来上手くいかなくなるのは判りきっている。だからといって結婚を取りやめれば雀と俺を結ぶものがなくなってしまう事も判っていて、ベッドに座り込んだ俺はくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
「雀、俺は……」
問いかけるように目の前に浮かんだ顔に話しかけた時。コンコンと遠慮がちなノックの音が聞こえる。雀鈴がまた来たのかと、半ばうんざりしながら扉を開けた。
「悪いがもう休むところだから───」
「ごっ、ごめんなさい、オレっ」
言いかけてそこに立っていたのが雀鈴でないことに気づく。薄物の着物を纏った雀は目を見開いて詫びた。
「ごめんなさい、オレ、一言謝りたくて。無理に付き合って貰ってずぶ濡れにさせちゃって……真栖、風邪引かなかったっスか?」
「雀」
「それに雀鈴を怒らせちゃったから、真栖、色々言われたんじゃないかと思って……本当にごめんなさいっ」
雀は言って深々と頭を下げる。それから顔を上げると笑みを浮かべて言った。
「それだけ言いたくて。寝るところ邪魔しちゃってすんませんでした。おやすみなさい」
雀はそれだけ言うと俺の返事を待たずに立ち去ろうとする。俺は手を伸ばして雀の腕を掴んで引き留めた。
「待て、雀。部屋に入れ」
「でも、もう寝るところなんじゃ」
「いいから」
俺は言って雀の身体を部屋の中へ引っ張り込むと扉を閉め鍵をかける。不安そうに見上げてくる空色を見つめて俺は言った。
「お前の方こそ熱が出たと聞いたぞ。大丈夫なのか?」
「平気っス。ちょっと熱っぽいだけっスから」
雀は言ってにっこりと笑う。それから視線を落として続けた。
「オレ、兄さんが出来ると思ったらなんだか嬉しくて……無理して付き合わせてごめんなさい」
「俺は気が進まない事に無理して付き合うほどお人好しじゃない」
雀の言葉に思わずそう返せば、雀が驚いて俺を見る。俺の顔をじっと見つめた雀は安心したように笑って言った。
「それならよかったっス。今日はどうもありがとう」
そう言って笑う雀の笑顔に必死になって押さえ込んでいた物が出口を探して暴れ回る。不意にぐっしょりと濡れた雀の身体から香る甘い香りが部屋の中に立ち込めた気がして、俺の身体がグラリと傾いだ。
「真栖?」
ハッと気がついた時、雀が俺の腕を掴んで心配そうに見上げていた。雀の金髪から零れた雨の滴が白い首筋を流れていく幻を目の前の雀に見たその瞬間。俺は噛みつくように雀に口づけていた。 |