レヴィアタンの焔  第八章


 ころころと鈴が転がるような声で笑う女性をロイは微笑みながら見つめる。瞳は女性を見ているのにロイの瞼の裏に浮かぶのはさっき別れたばかりのハボックの顔だった。
 5分でいいから待って、と縋りつくような瞳で頼み込んでくるハボックにゾクゾクした。焦らして、いかにも仕方ないという顔で5分だけと椅子に腰を下ろせば、嬉しそうにパッと輝く顔に一瞬誤解しそうになった。
(仕事が終わらないと困るから、待つという言葉に喜んだだけなのにな)
 こんな些細なことにすら喜びを感じてしまう己が哀れでもある。結局ロイはその5分では我慢出来ず、道がよく判らないフリでハボックを道に迷わせたのだ。道を間違えるたび、鏡越しにすまなそうな顔でロイを見つめるハボックに昏い喜びを感じた。このまま永遠に迷い続けて着かなければいいと思っていたなど、ハボックにはきっと想像もつかなかったに違いない。
 ロイは一度目を閉じると今度はちゃんと目の前の女性を見つめる。輝く金髪と青い瞳はハボックに似ているようでまるで似てはいなかった。
(アイツの金髪はこんな白茶けた色じゃない、蜂蜜色で太陽の香りがする金だ。瞳だって綺麗な空色で……)
 あの金髪に指を沈めて引き寄せたい。あの空色の瞳を快楽の涙で濡らしたい。
「マスタングさん?」
 黙りこくってしまったロイを目の前の女性が心配そうに呼ぶ。答えようとしたロイは言葉に詰まって咄嗟に顔に笑みを貼り付ける。
(なんていう名前だったかな…)
 さっき呼んだはずの名前は記憶のどこにも落ちていなくてロイは内心苦笑する。それでもそんな事は相手に微塵も悟らせないままロイはにこやかに会話を続けたのだった。

「頭いてぇ…」
 ハボックはソファーの上に身を起こして頭を抱えて呻く。結局夕べは体の火照りを冷ますため冷たいシャワーを浴びて、ろくに乾かしもせずに家にあった酒を飲みつくした。ちっとも酔えないと思いながら酒を煽っていたのだが、気がつけばソファーに突っ伏すように眠っていたハボックは不自然な体勢で寝ていた所為であちこち痛む体と、鈍く重い頭の痛みとで目覚めたのだった。しょぼしょぼとした目を懸命に開けて時計を見れば出勤までにもうさほど時間がない。ハボックはギシギシという体をなんとか起こすとフラフラと浴室へと向かった。
 服を脱ぎ捨て夕べと同じように冷たいシャワーを浴びる。細かな水のしぶきが肌に当たる度、何かぞわぞわと気色の悪い感じがしてハボックは慌ててシャワーを止めた。
「メシ……いいや、食いたくないし」
 せめて何か飲もうかとも思ったが動くのがかったるくて着替えだけ済ませる。眉間を何度か揉み解すと、ハボックはのろのろとアパートを後にした。

「まぁた二日酔いか?ハボ」
 顔色の悪いハボックを見てブレダが呆れた様に言う。ハボックはヘヘヘと笑うとなるべくそっと腰掛けたが、椅子に尻がついた途端ズキンと頭に痛みが走って「うう」と机に突っ伏した。
「俺、お前は酒に滅法強いと思ってたんだが思い違いか?おい」
 ブレダはそう言いながらペンの尻でハボックをつつく。恨めしそうな顔でペンを払うとハボックが言った。
「だって全然酔えなくってさぁ」
「酔えない?二日酔いって言うのは酔わなくてもなるもんなのか?」
「気がついたら酔ってたんだよ」
「なんじゃそりゃ」
 はあ、とため息をつくハボックにブレダもため息をつく。椅子の背に体を預けると、椅子がかかる過重に悲鳴を上げた。
「とにかくよ、ハボ。もうちょっと考えて飲めや。お前最近飲み方よくねぇぞ」
「うん……暫く酒はやめとく」
「それもいいかもな」
 ブレダがそう言ったとき、司令室の扉が開いてロイが入ってきた。ハボックの顔を見ると露骨に顔を顰める。
「また飲んで騒いできたのか、ハボック」
「夕べは一人淋しく飲んでましたよ、大佐と違って」
 オレだって一緒に飲んでくれるカワイコちゃんがいればこんなになんねぇ、と机にへばりつきながらぼやくハボックをロイはじっと見つめたが執務室に向かって歩き出しながら言った。
「コーヒーを頼む、ハボック。ついでにお前の分も淹れて酔いを醒ませ」
「アアイ、サァー」
 間延びした答えにロイは軽く舌打ちすると扉の向こうに消える。のろのろと立ち上がるハボックにブレダが言った。
「大丈夫か、ハボ」
「んー、多分…。それに大佐、少し休ませてくれる気みたいだし」
「だからってダラダラしてっとまた嫌味言われるぞ」
「判ってるって。だぁいじょうぶー」
 ハボックはそう言うと心配そうに見つめるブレダに手を振って司令室を出た。

「コーヒーお持ちしましたぁ」
 ハボックはコーヒーのトレイを手に扉を開けると執務室に入る。ロイは眉を顰めて書類から顔を上げると言った。
「お前、いい加減ノックと言うものを覚えろ」
 犬でももう少し物覚えがいいぞ、と嫌味たっぷりに言えばハボックが苦笑する。
「だって、ノックの音、響くんスもん」
 そう言ってカップを机に置くハボックをロイは心配そうに見上げた。
「そんなに痛むのか?」
「痛いっつうか、ふらふらするっつうか」
 ハボックはそう言いながらもう一つのカップを手にソファーに腰掛ける。ふうふうと息を吹きかけてひと口飲むとロイを見た。
「ちょっとだけここで休んでもいいっスか?5分だけ」
 期待を込めて向けられる空色の瞳に内心ゾクリとしながらロイはワザとらしくため息をつく。
「仕方ないな、5分だぞ。それが過ぎたら叩き出すからな」
「やった。ここのソファ、寝心地いいんだもん」
 ハボックは嬉しそうに笑って言うとカップをテーブルに置き、ソファーの上に長々と寝そべる。長い脚をソファーの袖に載せるとその瞳を閉じた。
「まったく、上司の執務室をなんだと思ってるんだか」
 呆れた口調で、だが瞳は優しく微笑んでロイはそう呟く。それから無理矢理ハボックの姿から視線を引き剥がすと書類に手を伸ばした。
 聞こえてくるハボックの息遣いがロイの中の欲望を刺激して、ロイは慌てて首を振るとその考えを頭から締め出す。必死に目の前の書類に没頭するフリをしながら「休んでもいい」と頷いてしまったことを激しく後悔した。
 のろのろと動く時計の針が漸く5分経ったことを知らせて、ロイはひとつ息を吐くとハボックの方へ目をやる。
「おい、5分経ったぞ」
 そう声をかけたがハボックからのいらえはなく、ロイは眉を顰めて立ち上がった。
「ハボック。眠っているのか?」
 そう話しかけながらハボックへと近づいていく。傍らに立つと目を閉じたまま身動きしないハボックをじっと見つめた。薄く開いた唇を見つめていたロイはソファーの背に片手をつくとハボックに顔を近づける。色素の薄い唇から零れる息を甘いと思った瞬間、ロイは唇をハボックのそれに重ねていた。啄ばむように軽く噛むと唇に舌を這わせる。もっと深く貪りたい気持ちをなんとか抑えて、ロイは唇を離した。思ったより柔らかく熱い唇にハボックを欲しいと思う気持ちが湧き上がって、ロイは首を振った。ソファーから手を離すと椅子に戻る。そこからハボックを見つめると言った。
「ハボック、5分経ったぞ。いい加減に――」
 そこまで言ってロイはガタンと立ち上がる。大股でハボックに歩み寄ると傍らに跪きその額に手を当てた。そうすれば手のひらに伝わる熱にロイは思い切り舌打ちする。
「馬鹿が!熱があるじゃないかっ!何が二日酔いだっ」
 ロイはそう呻くと立ち上がり執務室の扉を開けた。乱暴に開かれた扉に驚いて顔を上げるブレダに向かって言う。
「少尉、手を貸してくれ」
「どうかしましたか、大佐」
「自分の体調も判らん阿呆を医務室に運ぶのを手伝ってくれ」
 思い切り顔を顰めて言うと執務室の中へと戻るロイの後を追ってブレダが聞いた。
「ハボックのヤツですか?一体どうしたんです?」
「熱がある。頭痛は二日酔いじゃなくて発熱の所為だ」
 ロイはそう言いながらハボックに近寄ると額にかかる金髪をかき上げる。大事なものを扱うような優しい手つきにブレダは一瞬目を瞠ったが、「手伝ってくれ」というロイの声にハッとすると近づいていった。
「まったく世話の焼ける…」
 そう言いながらハボックに肩を貸すロイの反対側からその長身を抱えるとブレダはため息をつく。
「あんまりこういうことのないヤツなんですけどね」
「一人暮らしだろう?コイツは。……面倒を見てくれるような相手がいるのか?」
 搾り出すように言うロイの横顔をチラリと見てブレダは言った。
「いや、今はいないと思いますけど。まあ、こういう時はお互い様なんで俺が面倒見ますよ」
 その言葉にロイの体から怒気とも緊張とも言えない何かがスッと消えて、ブレダはよく判らないままにロイの横顔を見つめたのだった。


→ 第九章
第七章 ←