レヴィアタンの焔  第三十六章


「おはようございます…」
 フュリーは司令室に入ってきたロイにそう声をかけるとぼーっとした顔で執務室に入っていくロイを目で追う。フュリーの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、ロイは何も言わずに執務室の扉の向こうに消えた。
「大佐、大丈夫かなぁ」
 日に日に体調が悪くなっていく様子の上司にフュリーは首を傾げる。だからといって何かできるわけでもなく、フュリーは書類に目を戻した。
「おはよう、フュリー」
「うっす」
「あ、おようございます」
 最近毎朝そうであるように今朝も連れだってやって来たハボックとブレダにフュリーは答える。なんとなく元気のない二人の様子にフュリーはまたもや首を傾げた。
(最近みなさん、お疲れなのかな。大佐は凄い風邪っぴきだし、ハボック少尉もブレダ少尉も元気ないし…)
 自分だけこんなに絶好調でいいのだろうかと、ちょっぴり申し訳ない気がして、フュリーはこっそり首を竦める。せめてコーヒーでもと席を立つと上司の為にコーヒーを淹れてきた。
「どうぞ、少尉」
「あ、サンキュ、フュリー」
「お、悪いな」
 手近の二人の机に先にカップを置いてしまうと執務室の扉を叩く。返事を待って扉を開けると書類を片手にぼーっとしているロイの前にカップを置いた。
「どうぞ、大佐」
「あ?ああ、フュリー曹長か、ありがとう」
 ロイは礼を言うと書類を置き、カップを両手で包み込む。ズズッとコーヒーを啜る姿はなんだか見るに忍びなく、フュリーはトレイを抱えると言った。
「大佐、中尉に仕事の調整をしてもらってお休みになったらいかがですか?すごく具合悪そうですよ」
「いや、そう言うわけにはいかん。どうしてもやらなきゃならない事があるからな」
 心配してくれてありがとう、と鼻を啜りながら言うロイにフュリーは一礼して執務室を出る。自席に腰を下ろしながら誰にともなく言った。
「本当に大丈夫なのかなぁ、大佐。ああまでしてやらなきゃいけないような急ぎの案件なんてあったっけ?」
「大佐、どうかしたのか?」
 独り言のような言葉をハボックが耳に留めて聞く。フュリーは軽く頷くと答えた。
「もの凄く調子が悪そうなんで、中尉に頼んで休んだらどうですか、って言ったんですけどどうしてもやらなきゃいけない事があるから、って。そんなに急ぎの案件って今、ありましたっけ?」
「さあ、オレは聞いてないけど…」
 そう言ってからハボックは唇を噛み締める。
(いちいち言わないよな、オレになんて…)
 仕事の上でも距離を置くようにしたのは自分だ。ロイはそれを察して他の人間に回せるものは回してくれている。
(自分でやってんのに、なに勝手に傷ついてんの)
 ハボックはコーヒーのカップで醜く歪んだ口元を隠してそっとため息をついた。
(具合、悪いのか…。なんかしてあげたいけど)
 看病したいと思ってもそれを実行に移すことも出来なくて。
 ハボックは心配そうに執務室の扉を見つめた。

 ブレダはコーヒーを飲みながらそっとハボックの様子を窺いみる。結局今朝になってもブレダは夕べロイが来たことをハボックに告げる事が出来ないでいた。
(難しいことじゃないだろうが。ひとこと『夕べ、おまえが出てる間に大佐が来たぜ、すぐ帰ったけどな』って、それだけ言えばいいんだ)
 そう思って何度も言おうとして言えなかった。ブレダは沈んだ様子のハボックを見て眉を顰める。
(ハボにあんな顔させてんの、俺かもしんねぇ)
 ブレダはそう考えるとカップの中身を一気に飲み干したのだった。

「ブレダ、なんか食いたいものある?」
 そうして何日かが過ぎていき、ここのところよくそうしているように仕事を終えて買い出しの為に街を歩きながらハボックが言う。
「いんや、特にねぇけど」
「んー、何にしようかなぁ…」
 ブレダの返事に困ったようにハボックが呟いた。きょろきょろと店先を覗きながら歩いていたハボックが急に立ち止まる。
「ハボ?」
 突然止まってしまったハボックに先に行ってしまったブレダは戻ってきて声をかけた。
「どうした?」
「あの人…」
 ハボックが見つめる先をみればそこには先日から何度か目にした女性が立っていた。金髪に青い瞳のその女性にブレダは「ああ」と頷く。
「大佐の彼女じゃねぇか。今日は大佐、一緒じゃないのかね」
「さあ、これから大佐のとこ、行くのかもよ。デートなんて外でばっかりするもんじゃないだろ」
「ああ…そうか」
 ブレダはまるで思いつかなかったと言うように頷いて、視線をハボックに移した。そうしてハボックの傷ついたような横顔に思わず息を飲む。それに気づかずハボックはブレダを見て笑った。
「行こ、ブレダ。オレ、腹減っちゃったよ」
「ハボ」
 言うなりジェーンに背を向けて歩き出すハボックをブレダは慌てて追いかける。お互いに言葉を見つけられないまま、黙りこくって二人は街を歩いた。歩きながらポケットを探ったハボックが再び立ち止まる。ブレダの顔を見ると言った。
「ごめん、オレ、ライター忘れてきた。ちょっと司令部行って取ってくる」
「わざわざ司令部まで行かなくてもライターくらい貸すぞ」
「うん、でも明日休み貰ってるし、なんかないと落ち着かないし、ちょっと取ってくるよ」
 そう言って歩き出すハボックをブレダはすぐに追いかけると並んで歩きだした。
「ブレダ?」
「俺も行くわ」
「いいよ、晩飯の材料は適当に買って帰るから先帰ってて」
「いいだろう、一緒に行ったって」
「そりゃいいけど…」
 一緒に行けばどこかでロイの事を切り出すタイミングがあるかもしれない。なんとなくそう思ってブレダはポケットに手を突っ込んで歩いた。

「うう、寒い…」
 ロイはコートの襟を掴んでそう呟く。実際ここのところの寒さは身に沁みたし、おかげで風邪は酷くなる一方だった。
「一度くらい帰ってきても良さそうなものだがなぁ…」
 希望的観測も含めてロイは呟く。こうしてハボックのアパートで待つようになってかれこれ10日ばかりが過ぎて、さすがに他の手段を考えた方がいいような気がしてきた。そうは思うものの妙な具合に司令部で互いを避ける癖がついてしまった今、以前のように気軽に声をかけられないのも事実で。
「情けない、このロイ・マスタングともあろうものが」
 ロイは風邪のせいで酷いだみ声となった声で呟く。ポケットからティッシュを取り出し、格好も気にせず思い切り鼻をかめばどこかで扉が閉まる音がした。
「ん?」
 ロイは薄暗い廊下を見渡したが誰の姿も見あたらない。一つため息をついてロイは少しでも寒さから逃れようと、マフラーの中に顔を埋めて手すりに寄りかかった。

「あ、中尉」
 司令室に戻ればホークアイが書類をめくっていた。そう言えば今日の夜勤は彼女だったと今更ながらに思い出す。
「お疲れさまっス。コーヒーでも淹れましょうか?」
「ありがとう、でもさっき飲んだばかりだから。何か忘れ物?」
「ええまあ」
 ハボックは苦笑すると引き出しを開ける。
「あった、あった」
 中から銀色のライターを取り出すハボックを見つめながらホークアイは鳴り出した電話を取った。
「はい、司令室」
 受話器に向かって話し出すホークアイに、辞去の合図をして司令室を出ていこうとするハボックとブレダをホークアイが引き止める。何事か事件でもと見交わす二人にホークアイが言った。
「市民から通報が来ているそうなの。ここ数日怪しげな男が毎晩のようにうろついているって」
「怪しげな男?」
「年の頃は20代後半、黒髪に黒い瞳で身なりはまともだけれど毎晩毎晩夜通し立っていて気味が悪いと通報してきたそうよ。場所はね、ハボック少尉、貴方のアパート」
 ホークアイの言葉にハボックは目を見開く。
「20代後半で黒髪に黒い瞳って…」
「この寒空の下、一晩中外で立ってたら風邪も引くでしょうね」
「だって…デートなんじゃ…」
 ホークアイの言葉をすぐには上手く消化出来ずにハボックは呟いた。そんなハボックにブレダが言う。
「ハボ、お前にずっと言わなきゃと思ってて言えなかった事があんだよ」
「え?」
「お前が俺んちに寝泊まりするようになって少ししてから大佐が来た。お前がいないかって」
 顔を顰めて、だがまっすぐにハボックを見つめてブレダは言った。
「いつだったか、お前が晩飯作ってる最中に飛び出して行った時だ。俺は『いない』と答えた。何なら中を見てってくれとも言った。でも大佐はそうしないで帰っていった」
 そこまで言ってブレダは一つ大きく息を吐く。それから再び言葉を続けた。
「卑怯だったと思う。あの言い方じゃ大佐はお前が出かけていていないとは思わなかっただろうし、家を検めるような事も出来なかっただろう。お前にも大佐が来たことを言えなかった」
 ブレダはそう言うとハボックに向かって頭を下げる。
「ごめんっ、ハボ!ずっと言わなきゃって思ってはいたんだけどっ」
「ブレダ…」
 二人のやりとりを聞いていたホークアイがハボックに言った。
「器用そうでいて、意外と不器用な人よ。特に本気の相手の前では」
「中尉」
「早く行ってあげなさい。このままじゃ変質者でしょっぴかれるか、風邪をこじらせてダウンするか。正直言ってどちらも迷惑だから」
 そう言って悪戯っぽく笑うホークアイにハボックの顔にも笑顔が浮かぶ。
「ありがとう、中尉、ブレダ!」
 ハボックはそう叫んで司令室を飛び出して行った。その背を見送ってブレダがため息をつく。
「そろそろ保護者は卒業してもいいんじゃなくて?」
 そうホークアイが言えば。
「そうですね。アイツももう、ガキじゃないんだし」
 ちょっと寂しそうにブレダが答えた。


→ 第三十七章
第三十五章 ←