レヴィアタンの焔  第三十五章


 薄いシャツ一枚のまま走り続けたハボックは、たどり着いた屋敷を見上げてハアハアと息をつく。木々に囲まれた家はハボックが立っている所からは中の様子は伺い知れなかった。
「まだ帰ってないのかな…」
 ここのところ毎晩デートをしているらしいとフュリーが言っていた。
「またあの人とつき合ってんのか…」
 ハボックはそう呟いてジェーンの事を思い浮かべる。『お前の代わりだった』とロイは言ったが、ハボックから見ればジェーンという女性は自分などより余程魅力的でロイの傍に立つに相応しいと思えた。
「はは、オレも部下としてなら傍にいてもそれなりだと思うけどね…」
 悔し紛れにそう呟いてはみたものの、自分が望んでいるのはそれ以上のもので。だが、それが望めない今、せめて胸の内を晒すから諦めさせて欲しいと思う。
「どうしよう、ここで待ってようかな…」
 走ってきた汗が引けば体は瞬く間に冷えていって、ハボックはギュッと己の体を抱き締めた。中の様子が判らないだろうかと、ハボックが木々を透かして中を覗き込もうとした時。
「ここで何をしているんだね」
 きつく問いただす声に慌てて振り向けば見回りの憲兵がハボックを睨んでいた。
「えっ、いや、その、ちょっと…」
「怪しい奴だな、ちょっと一緒に来て貰おうか」
「ご、ごめんなさいっ!!帰りますっ!!」
「あ、おいっ、こらっっ!!待たんかっ!!」
 憲兵の怒鳴り声を背に、ハボックは慌てて逃げ出したのだった。

 ロイはアパートの階段を上がって目指す部屋の前に立つと、一つ大きく息をついて手を持ち上げる。握った拳でドンドンと扉を叩けば部屋の主が顔を出した。
「大佐…」
 ロイの顔を見て驚きを隠せない様子の、赤みがかった金髪を短く刈り込んだ部下にロイは笑いかける。
「こんな時間にすまないね、ブレダ少尉。ハボックが来てないだろうか?」
 そう尋ねればブレダは一瞬の間の後に答えた。
「ハボならいません」
「……いないのか?」
「疑うなら中見て貰ってもいいですよ」
 ブレダはそう言ってロイが中へ入れるよう、入口を塞いでいた体を横によける。だがロイは中へは入らずに首を振った。
「いや、いないならいいんだ。アパートの方へ帰っていないようだったんでな、もしかしてここに寄ってるのかと思って来てみただけだから」
 ロイは小さなため息と共にそう言ったが、改めてブレダを見つめて言った。
「少尉、君が私に腹を立てているのはもっともだと思うんだが、ハボックと話をさせて貰えないだろうか」
 そう言ってまっすぐに見つめてくる黒い瞳を見返して、ブレダは唇を噛む。一度視線を落としたが、すぐにロイを見つめて言った。
「俺が大佐とハボが話すのを快く思ってないのは事実です。けどね、もしハボに大佐と話す気があるなら、俺が止めたところで話すでしょうよ。俺が止めるままに話そうとしないのは、ハボももうアンタと話す気はないって事だと思いますがね」
 ロイはブレダの言葉を黙って聞いていたが、やがて顔を顰める。
「なるほど。それも一理あるかもしれんな」
 囁くようにそう言ってロイはブレダに笑って見せた。
「ありがとう、突然押し掛けて悪かった。失礼するよ、少尉」
 ロイはそれだけ言ってブレダに背を向けて歩き出す。カツカツと響く足音が聞こえなくなると、ブレダはそっと扉を閉めた。部屋の中に入り、吹き零れたままの鍋が置いてあるキッチンを見やると呟いた。
「嘘は言ってねぇよな」
 実際今、ハボックはどこへ向かってか飛び出していってしまってここにはいない。自分は部屋を見たければそうしてくれと言ったし、部屋を見たロイがハボックを待ちたいと言ったら、それを止めはしなかったろう。
「結局そんなに話したいってわけじゃなかったってことだろ」
 あっさり帰ってしまったロイがいけないのだと、そう自分に言い聞かせようとしていると、扉が開いて飛び出していったハボックが帰ってきた。
「ハボ…」
 肩を落としてすっかり意気消沈した様子で帰ってきた友人をブレダはじっと見つめる。部屋に入ってきたままにじっと足下を見つめていたハボックは、やがて顔を上げるとにっこりと笑った。
「ごめん、ブレダ。今、飯作るから」
 そう言うとハボックはキッチンに入っていく。うわぁ、すげぇ事になってる、などとわざとらしく大きな声を上げるハボックにブレダは聞いた。
「ハボ、ここにくる途中、誰かと会わなかったか?」
「え?ここに来る途中?いや、誰とも会わなかったけど」
 コンロに吹き零れた汚れを布巾で拭いていたハボックは、顔を上げると不思議そうにブレダを見る。じっと見つめてくる空色の瞳から目を逸らすとブレダは呟くように言った。
「そうか、ならいいんだ」
 らしくなく歯切れの悪いブレダをハボックは暫く見つめていたが、コンロに目を戻すとゴシゴシと汚れを拭く。ブレダはハボックに背を向けたままギュッと手を握り締めた。

「今日はバタバタしちゃってごめんな、ブレダ」
 じゃ、おやすみ、とハボックは寝室に入っていく。それにもごもごと返事を返したブレダはドサリとソファーベッドに腰を下ろした。
(なんでハボに言わねぇんだ?大佐が来たって)
 握り締めた手を見つめてブレダは考える。ハボックがどこに行っていたのかは判らないが、もしあのままアパートにいたら訪ねてきたロイと話をしていたかも知れないのだ。
(でも、ハボだって話したがってねぇし)
 何度か話そうとしたロイとの間を邪魔したブレダにハボックは何も言わなかった。それが自分の為に怒ってくれたブレダへのハボックの優しい気持ち故と判らないわけではなかったが。
(判ってんだよ、俺だって。このままにしといて良いわけねぇって)
 それでも訪ねてきたロイを引き留めることも、ハボックにロイが来たことを告げることも出来なかった。
「ああ、クソッ」
 ブレダは低く呻くとブランケットを引き上げて潜り込んでしまったのだった。

「まだ帰ってきていないようだな」
 ハボックの部屋の前に戻ってきたロイは人の気配のないそれに安堵とも落胆とも言えるため息を零す。冷えきった体を温めようと、両手で自分の腕をガシガシと擦ってロイは手すりに寄りかかった。
「やはり司令部で話した方がーー」
 埒があかない事態にそう呟いて、ロイは慌てて首を振る。
「いかん、いかん。また誠意が足りないと言われてしまう」
 職場で空いた時間のおざなりに話すような話ではないのだ。そうと判ってはいてもあてもなく待つ身は辛い。
「くそう、どこにいるんだ、ハボック…」
 一番いて欲しいと願ったブレダのところにもいなかった。それでは今、ハボックは誰と一緒にいるのだろう。
「見つけたら燃やしてやる…」
 どこの誰とも判らぬ相手に嫉妬して、ロイは星の瞬く空を睨み上げたのだった。

「ああ、しんどい…」
 明け方、出勤前に一度言えに戻ろうと歩いていたロイはそう呟く。足下に落としていた視線を上げれば家はすぐそこまで来ていて、ロイはため息をついた。のろのろと門を目指して歩いていくロイに後ろから呼び止める声がかかる。なんだ、と肩越しに振り向けば、最近ロイの自宅周辺を見回るようになった憲兵が小走りに走ってくるところだった。
「マスタング大佐!」
「ああ、君か」
 ご苦労、と声をかければまだ年若い憲兵は興奮に顔を赤らめる。憧れの焔の錬金術師を前に、憲兵は敬礼すると言った。
「夕べなにやら不審な輩がご自宅の周辺をうろついておりまして」
「不審な輩?」
「はい、ぬぼーっと背の高い男がこの寒空の下、Tシャツ一枚で家の中を窺っておりました。怪しい奴と問い質しましたところ一目散に逃げていきましたが」
「特に何をしていたというわけではないんだな?」
「はい、すぐに逃げていきましたから」
 ロイはぼーっと霞む頭で憲兵の言葉を反芻していたが、面倒になってため息をつく。
「そうか。特に何かあるとも思えんが、このあたりの警備はよろしく頼むよ」
「はいっ、お任せくださいっ」
 ロイに言われて憲兵は真っ赤な顔で敬礼する。ロイはそれに軽く手を振るとよろよろと家の中へと入っていった。


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