レヴィアタンの焔  第二十四章


「とりあえず風呂に入って来い。そのままじゃ風邪を引く」
 家の中に入った途端そう言うロイにハボックは困ったような顔をする。その顔つきで察したロイがくすりと笑って言った。
「棚にゲスト用のバスローブが入ってるからそれを着たらいい。タオルはあるものを使ってくれたらいいから」
「はあ、あ、でも大佐が先に入ってください。オレは後でいいんで」
「私は寝室のシャワールームを使うから、気にせず入って来い」
 ロイがそう言っても尚何か言おうとするハボックをロイは軽く睨む。そうすれば流石に「じゃあ」と言ってハボックはバスルームへと消えた。その背を優しい笑みを浮かべて見送ったロイはぶるりと体を震わせる。
「いかん、私が風邪を引く」
 ロイはそう呟くと足早に階段を上がった。

 ハボックはバスルームに入るとため息を漏らす。思いがけず泊まる事になってしまったが、正直今になっても自分が泊まったりしてもいいのだろうかと思っていた。
(だって……大佐はプライベートに他人いれるの嫌いだし、ここに来ていいのは)
 彼女だけじゃん、とそう思えば胸がキリキリと痛む。キュッと唇を噛み締めたハボックは体がぶるりと震えた事で慌てて服を脱ぎ始めた。
「せっかく泊めて貰って風邪引いたんじゃ何言われるか判んないや」
 脱ぎにくい濡れた服を脱ぎ捨て、浴室に入る。熱いシャワーを浴びればホッとため息が零れた。手早く洗うと湯船に体を沈める。途端に弛緩する体に目を閉じれば、浮かぶのはさっき一緒に食事をした時のロイのことばかりだった。
「楽しかったな……」
 何も言わずともハボックが好きだと言っていた店を選んでくれたのが嬉しかった。おススメだと言っていた料理を覚えていて頼んでくれたのが嬉しかった。そして何よりあの時だけは黒い瞳が自分だけを見つめているのが嬉しかった。
「たいさ……」
 もう二度とは訪れないであろう時間をハボックはそっと抱き締める。そう遠からぬ将来、ロイは結婚するのだ。ここへ来ることももうないだろう。ハボックは緩く首を振ると湯船から上がりバスルームを出た。

 さっさとシャワーを浴びてしまうとロイはキッチンでミルクを沸かす。熱いココアを作るロイは自分が鼻歌を歌っている事に気付いて苦笑した。
「まったくまるで若造のようだな、私は」
 ハボックがこの家の中にいるのだと思っただけで心がウキウキとしてくる。こんな感覚は初めてで、ロイは楽しくて仕方なかった。
 びしょびしょに濡れそぼたれて自分を見つめてきたハボックを思い出せばゾクゾクする。女性にすらこんな感情は抱いた事がなくて、不思議に思ったロイはすぐに合点がいった。
(ハボックを好きだからだ)
 ハボックが家の中にいるだけでウキウキするのもその姿にゾクゾクするのも自分がハボックを好きだからだ。ロイは笑みを浮かべるとハボックの為に熱いココアをカップに注ぎいれた。

「やべ…ゆっくりしちゃった」
 湯船になど浸かっていずにさっさと出ればよかったと思いながらハボックは体を拭いていく。言われたとおり棚からバスローブを取り出し腕を通しながら何の気なしに回りの棚を見たハボックは首を傾げた。
 棚に並んでいるのはリネン類と男性用の化粧品ばかりだ。女性のものが見当たらない事に気付いてハボックは僅かに眉を寄せた。
「彼女、泊まったりしないのかな…」
 結婚を前提に付き合っている女性が泊まった事もないなどということがあるだろうか。
「ああ、でも寝室にもシャワールームがあるって言ってたっけ」
 一瞬自分に都合のいい事を考えそうになってハボックはそう呟く。
「きっとそっちに置いてあるんだ」
 人目につく可能性のあるこのバスルームよりもよりプライベートな寝室のシャワールームに置く方が自然だろう。ハボックはそう考えてひとつ瞬くとバスルームを出て行った。

 灯りを頼りにダイニングへと入ればロイがカップを手にキッチンから出てきたところだった。
「すんません、ゆっくりしちゃって」
「ちゃんとあったまってきたか?」
 ロイはテーブルにカップを置きながらハボックを見る。ゆっくり温まってきたのだろう、白い頬を桜色に染めるハボックにロイは目を細めた。濡れて色を増した金色の髪から滴が頬を流れるのを見て手を伸ばす。まだしっとりと濡れたままの髪を軽く引っ張ると眉を顰めた。
「乾かしてこなかったのか?ドライヤーが置いてあっただろう?」
「いつも自然乾燥っスもん。ちゃんと拭いてはきましたよ」
「寒いんだからそれじゃ風邪を引くだろうが」
「この部屋あったかいから平気っス」
 そう言ってへらりと笑うハボックにロイは眉間の皺を深くする。ココアのカップをハボックに持たせると言った。
「とりあえずそれでも飲んでいろ。体の中から温まる」
 ロイはそれだけ言うとダイニングを出ていってしまう。ハボックは椅子に腰を下ろし渡されたカップを両手で包み込むとそっと口をつけた。
「あまい…」
 柔らかい甘さはその熱さも手伝って体の中をじんわりと温めていく。カップを手にハボックが薄っすらと笑みを浮かべた時、ロイがドライヤーを手に戻ってきた。
「あ、大佐。ココア、すげぇ美味いっス」
 ありがとうございます、と笑うハボックにロイは頷くとドライヤーのコードを繋ぐ。キョトンとしているハボックの背後に回るとスイッチを入れ金色の髪に温風を当てた。
「わわ、たいさっ?!」
「煩い、じっとしていろ」
 いきなり髪をかき混ぜられて立ち上がろうとするハボックに言うとロイはハボックの髪を乾かしていく。その金色の髪がいつもの色を取り戻し、柔らかさを増していくのをロイは目を細めて見つめた。
 5分ほども乾かしただろうか、ロイはドライヤーのスイッチを切る。確かめるように手で髪を梳くと言った。
「これでよし」
「…ありがとうございます」
 首を竦めてそう言うハボックにロイは笑うと椅子に腰を下ろす。カップに手を伸ばすロイにハボックが言った。
「大佐のココア、冷めちまったんじゃないっスか?」
 自分は熱いうちに飲むことが出来たがロイの分はすっかり冷めてしまったのではないだろうか、そう思ってハボックが言えば、ロイは指でカップの表面に張った膜を摘んで口に放り込んでからココアを飲む。
「猫舌だからな、これくらいが丁度いい」
 そう言って笑うロイにハボックの胸がどきりと鳴った。ココアを飲む形の良い唇を、カップを持つ焔を生み出す指を、強い光を放つ黒曜石の瞳を、ハボックは焦がれるようにじっと見つめる。ロイはそんなハボックの空色の瞳を見返すと聞いた。
「どうした?」
 そう尋ねてくる黒い瞳から目を逸らせず、ハボックは唇を震わせる。
「たいさ、オレ……」
 込み上げてくる想いを口走りそうになったハボックはロイの薬指に目を止めて言葉を飲み込んだ。キュッと噛んだ唇を開けば零れてきたのは別の言葉だった。
「そういや、指輪は買ったんスか?もうサイズは聞いたんでしょ?」
 聞きたくもないことを口にしてしまってハボックは息を詰める。ココアを飲んでいたロイは不思議そうな顔でハボックを見た。
「指輪?」
 何のことだと言う様にハボックの言葉を繰り返すロイに、ハボックは苛々と眉を寄せる。
「いやっスね、すっとぼけないでくださいよ。彼女に指輪買うって言ってたじゃないっスか。もうプロポーズもして結婚の日取りなんかも決めたんでしょ?」
 聞きたくないと思っているのに言葉だけはスラスラと出て、ハボックは泣き出したくなった。そんなハボックの気も知らず、ロイは揺れる空色の瞳をじっと見つめていたがやがて口を開いて言った。
「結婚はやめたよ。ジェーンとは別れた」
 俯いてロイの言葉を待っていたハボックは暫くの間顔を上げなかった。やがてゆっくりと顔を上げると驚きに見開いた瞳でロイを見る。
「結婚、やめたんスか…?」
「ああ、ジェーンにはこれ以上付き合う気はないと言った」
 ハボックは呆然とロイの言葉を聞いていたが迷うように何度か唾を飲み込んだ。それから消え入りそうな声で呟く。
「なんで…?」
 こんなプライベートな事を聞くものではない、そう思いつつも言葉が出るのを止められなかったハボックにロイが言った。
「お前が好きだから」
 その言葉にポカンとするハボックが可愛いと思う。ロイは薄く笑うともう一度はっきりと言った。
「お前が好きなんだ、ハボック」
 そう言った途端、ガタンと椅子を鳴らしてハボックが立ち上がる。ワナワナと全身を震わせて言った。
「からかわないで下さい…」
「からかってなどいない。私は本気で言ってるんだ」
「本気なわけないっしょ?!アンタ、すげぇ女好きで、結婚しようとまで思ってるあんな綺麗な恋人がいて、なんでオレが好きだなんて言うんスかッ?!」
「事実だから仕方ない。それにジェーンの事は別に好きでもなんでもなかった」
 ロイはそう言ってゆっくりと立ち上がる。ハボックをまっすぐに見つめて続けた。
「彼女はお前の身代わりだったからな。見たことがあるんだろう?金の髪に青い瞳。似てると思ったがこれっぽちも似てなかった。あの事件でお前を失いかけてやっと判った。私は紛い物など欲しくない。欲しいのはお前だけだ」
「嘘だッ!!」
 ロイの言葉にハボックは声を張り上げる。全身でロイの言葉を否定しようとするハボックに、カッとなってロイも声を荒げた。
「嘘なもんかッ、私はお前が好きなんだッ!!」
「嘘だッ、そんなの絶対信じないッッ!!」
「ハボックッ!!」
 ハボックは泣き出しそうな瞳でロイを見るとパッと身を翻す。そのままダイニングの入口を抜けて玄関へと走った。
「ハボックッ!!」
 一瞬遅れてロイはハボックを追う。だが、ロイがハボックに追いつく前にハボックは玄関を開けると篠つく雨の中へと飛び出していった。


→ 第二十五章
第二十三章 ←