レヴィアタンの焔  第二十三章


「大佐ッ、この書類にサインくださいっ」
 バンッと何の前触れもなく開く扉にロイは思い切り顔を顰める。ハボックの言葉に答えずじっと部下の顔を見つめれば、ハボックは暫くの間笑みを顔に貼り付けてロイを見返していたが、やがて決まり悪そうに執務室を出て扉を閉めた。ロイが閉まった扉を見つめて待っているとコンコンと扉を叩く音がする。
「大佐ぁ?ハボックっスけど」
 僅かに透いた扉越しに聞こえる間の抜けた声にロイがククッと笑って「入りたまえ」と言えばハボックが大きな体を窄めて入ってきた。
「サイン、ください」
 ハボックは上目遣いにロイを見てそう言うと手にした書類を差し出す。背の高い部下が立っているにも拘らず上目遣いで自分を見るという、実に器用な芸当をやって見せるのを内心感心しながらロイは書類ではなくハボックの腕に手を伸ばすとその背の高い体をグイと引き寄せた。
「たいさっ?!」
 突然引き寄せられて倒れこみそうになりながら慌ててもう一方の手を机につくと、ハボックは目を丸くしてロイを見る。ロイはニンマリと笑うとその金色の髪に手を伸ばしてワシワシと掻き混ぜた。
「よく出来たな、ハボック」
「何するんスか、子供じゃないんだからこれくらい出来ますよっ」
「だがこれまで出来なかっただろう?」
 ニヤニヤと笑って言うロイにハボックは顔を赤らめる。
「別にできなかったわけじゃなくてっ、やらなかっただけっス!そんな事よりサインくださいッ」
 ムキになって答えるハボックにロイはクスクスと笑って掴んでいた腕を離した。そうして書類を受け取り目を通すとハボックに返す。何も言わずにまっすぐに見つめてくる黒い瞳にハボックはなんだか言葉を見つけられず、かといって目を逸らすことも出来ずに困ったような顔でロイを見返した。
「これでいいか?」
「えっ、あ、はいっ、ありがとうございましたッ」
 まっすぐに見つめたままそう聞かれてハボックは飛び上がって答えると書類を引っ掴んでロイに背を向ける。そのまま飛び出すように執務室を出るとバタンと扉を閉じた。
「はあ…」
 閉じた扉に背を預けるとため息をつく。
「なんなんだよ、もう…」
 そのままズルズルと座り込んだとき、丁度ブレダが司令室に戻ってきた。
「何やってんの、お前」
 呆れたような声にハボックは飛び上がるとへらりと笑う。
「なんでもないっ、この書類提出してくるッ」
 ハボックは大声で答えるとバタバタと司令室を飛び出していった。

 ロイはハボックが出て行った扉をじっと見つめていたがやがて自分の手に視線を落とす。ハボックの金色の髪を掻き混ぜた手のひらを見つめて笑みを浮かべた。顔を紅くしてムキになって答えるハボックの顔が心に浮かべばその笑みが自然と深くなった。
 一度認めてしまえばハボックへの想いは留まる事を知らなかった。ハボックが好きで好きで、彼に触れたくて仕方なかった。ハボックの瞳が自分以外のものを映すのが赦せなくて、ハボックの手が自分以外のものに触れるのが赦せなくて、ハボックの声を自分以外の誰かが聞くのが赦せなくて、自分だけがハボックを独占したくて。
 ロイがハボックに触れる意味を、あの金色の犬は気付いているのだろうか。もし気付いていないのなら、いつそれを気付かせてやればいいのだろう。
 ロイはハボックに触れた手のひらを大事そうにそっと握り締めた。

「ハボック」
「あ、はい。もう上がりっスか?」
 カチャリと開いた執務室の扉から顔を覗かせたロイにハボックが言う。ロイは僅かに顔を顰めると答えた。
「電話がかかってきてな、ちょっと時間がかかりそうなんだ」
「判りました。車はいつでもOKなんで出られるようになったら声を掛けてください」
「すまんな」
 ロイはそう言うと再び執務室に引っ込む。ハボックは一つ息を吐くと、二人の会話を何の気なしに聞いていたブレダの方を見やりニッと笑った。
「なんだよ」
「へへ、大佐のことはオレが送るから」
「んなことは判ってるよ。俺は仕事がひとつ減って嬉しいぜ」
 ブレダが呆れたようなうんざりしたような口調で言ったがハボックは益々嬉しそうに笑う。友人の腑抜けた笑顔に脱力してブレダが言った。
「なんだよ、前は大佐のこと、気に入らないような事言ってたくせに」
「え?オレがいつ、大佐のこと気に入らない言ったよ?」
「言ってたろ?しょっちゅうとっかえひっかえ相手変えてデートするなんて不誠実だとか何とか」
 ブレダにそう言われてハボックは顔を顰める。あの頃はなぜロイが不特定多数の相手とデートを重ねるのが気に入らないのか判らなくて苛々した。今は理由が判っているから余計に苛々する。
 そう考えてハボックはふと思い至ってブレダに聞いた。
「そういえば最近大佐ってデートしてるのかな」
「さぁな。相変わらずモテてるみたいだし、してんじゃねぇの?」
「………結婚するって話、あったろ?あれはどうなったんだろ」
「そういやそうだな」
 ハボックに言われて初めて気付いたというようにブレダが言う。ハボックは伺うようにブレダを見て尋ねた。
「なんか聞いてねぇの?」
「聞いてないな。まあ、ちゃんと決まりゃ教えてくれんだろ」
「……そ、だな」
 そんな日が永遠に来なければいいと、ハボックは思ってそっと目を閉じる。ブレダはそんなハボックをじっと見つめていたが手を伸ばすとその金色の髪をワシワシと掻き混ぜた。
「なにシケた面してんだよっ、この」
 そう言ってブレダは掻き混ぜる手に力を込める。
「う、わっ、もっ、何すんだよッ、ブレダ!」
 セットが崩れる、と喚くハボックからブレダは手を離すと言った。
「お前の頭ってなんかこう、ワシワシしたくなんだよなぁ」
「なにそれ」
「…んー、犬の頭掻き混ぜるようなもん?」
「オレは犬じゃねぇッ」
 ハボックはそう言ってブレダを睨むと手櫛で髪を整える。そうするうちロイもブレダと同じような事をするのを思い出してポツリと言った。
「大佐もそう思ってやるのかなぁ」
「ん?」
「頭」
 ハボックの言葉にブレダは「ああ」と頷く。
「あの人に取っちゃそれこそ犬撫でるみたいなもんじゃねぇの?」
「……だよなぁ」
 もっと他の意味があればいいのに、ほんの一瞬そう思って。
(あるわけないじゃん)
 内心すぐさま否定して、ハボックは苦く笑った。

「待たせたな」
 それから小一時間も経ってロイが執務室から出てくる。煙草を吸いながらボーッとしていたハボックはロイの声にパッと顔を明るくして答えた。
「いえ。もういいんスか?」
「ああ、やっと終わったよ」
 うんざりした顔で言うロイにハボックはくすりと笑って「お疲れさまです」と言うと椅子から立ち上がる。扉に向かって歩き出せばロイが続いてやってきた。
「車、すぐ回しますから」
「ああ、頼むよ」
 そう答えるロイに笑ってハボックは駆け出す。廊下を駆け抜けていく背の高い姿を見送ってロイはゆっくりと歩いた。正面玄関までくるとすぐ、ハボックが車をつける。ロイはハボックが下りて扉を開けるのを待たずに自分で扉を開けると車に乗り込んだ。
「すみませんっ」
「構わんよ」
 自分で乗り込んできたロイにハボックが慌てて言う。ロイが気にした風もなく答えれば車は静かに走り出した。他愛のないことを話していたが、家が近づいてきた時、ロイが言う。
「今夜は予定があるのか?ハボック」
「いえ、相変わらず淋しいもんスよ」
 苦笑交じりにハボックが答えればロイが言った。
「それじゃあ軽く飲みに出かけないか?」
「へ?…ええ、まあ、構いませんけど」
 でも、車、と言うハボックにロイが答える。
「うちのガレージに止めておけばいいだろう」
「はあ。んじゃそうします」
 ハボックはそう答えると急ぐでなく車を走らせた。ロイの家につくと車をガレージに止める。それから二人は改めて街へと繰り出していった。

 どこへ行くと申し合わせたわけでもなく、それでも二人は先日出かけたハボックの気に入りの店に行くと、この間と同じように酒を交わし美味い飯を食べた。そうしてほろ酔い加減で店を出ると当てもなく街をぶらつく。お互いに帰りたくなくて他愛もないことを話しながら歩いていればポツリと顔に当たるものがあった。
「雨?」
 その言葉に誘われるように数粒だった雨は瞬く間に辺りを白く変えた。二人は慌てて近くの店の軒を借りる。あっという間に本降りになってしまった雨を二人は呆然と見つめた。
「どうします?もうメシも喰ったし帰りましょうか」
「そうだな」
「送りますよ」
 ハボックがそう言えば少しでも長く一緒にいたいロイは笑みを浮かべて頷く。二人はエイと雨の中に飛び出すとバシャバシャと水溜りの水を跳ね上げて走った。
 ロイの家につく頃には二人共にハアハアと息があがってしまう。ハボックは何とか息を整えるとロイに言った。
「じゃあ、オレ、帰ります。今夜はありがとうございましたっ」
 ニコッと笑って再び雨の中に出て行こうとするハボックの腕をロイはガッシリと掴む。驚いて振り向く空色の瞳に言った。
「この大雨の中、帰るつもりか?」
「仕方ないじゃないっスか。今更傘差して歩くのもアホらしいし」
 さも当然と言う顔をして言うハボックにロイは顔を顰める。それから一つため息をつくと言った。
「泊まっていけ、ハボック」
「えっ、いいっスよ、帰れますから」
「こんな雨の中、帰す訳には行かん。大体この季節、これ以上濡れたままでいたら拙いだろう?」
「大丈夫っスよ、大佐。家帰ったら熱いシャワー浴びれば――」
「すぐ熱出すやつが何言ってる。泊まっていけ、何度も言わすな」
 そこまで言われれば流石にこれ以上固辞するのもどうかと思われ、ハボックは渋々と頷く。
「…そうっスか?じゃあ、お世話になります…」
 おずおずとハボックが言えばロイは嬉しそうに笑った。


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