レヴィアタンの焔  第二十章


「へッくしッッ!!」
 ベッドの上で紅い顔をしているハボックをブレダは呆れた顔で見下ろす。何度もクシャミを繰り返すハボックにブレダがため息をついた。
「お前、今日退院するはずじゃなかったのかよ」
「んな事言ったって……ハ…ハァックションッッ!!」
 ベッドの上で体が跳ね上がるほど大きなクシャミをするハボックにブレダは顔を顰めて後ずさる。
「クシャミかけんじゃねぇよッ」
「ごめ……」
 うつすな、と冷たい事を言うブレダを半分はコイツの所為なのにと思いながらハボックは恨めしげに見上げた。
「んだよ?ただの風邪なんだろ?」
「うん。注射打ってもらったからすぐ治ると思う。そしたらすぐ復帰するから」
「ま、ここまで来たらちゃんと治してから出て来い」
 ブレダはそう言ってハボックの髪をかき混ぜる。ハボックは目を細めてブレダの好きにさせていたがひとつ息を吐くと言った。
「眠い…」
「薬の所為だろ。ゆっくり寝て早く治しちまえ。大佐には言っておくから」
「うん……ありがと、ブレダ…」
 そう呟いてハボックは眠りに落ちていく。ブレダは小さく笑ってもう一度金色の髪をひと混ぜすると病室から出て行った。

「風邪?」
 ロイは走らせていたペンを止めて顔を上げる。ブレダが呆れた様に肩を竦めて答えた。
「そうなんですよ、今日退院だと思って病院に顔出したら紅い顔して寝てんです。風邪で熱出したらしくて、流石に病院もそんな状態のヤツ、退院させられなかったみたいで。まあ、たいしたことなさそうですからすぐ退院できると思いますけどね」
 ブレダはそう言うとロイが差し出した書類を受け取って執務室を出て行く。ロイはその幅広の背中が扉の向こうに消えるのを見ていたが、少し考えると広げた書類をそのままに立ち上がった。執務室を出て、大部屋に美人の副官がいないことを確かめると薄く笑う。司令室を出て行こうとすればブレダが声をかけた。
「大佐、どちらへ?」
「決まってるだろう?」
 ニンマリと笑ってロイは足早に廊下へと出て行く。それと入れ替わるように戻ってきたホークアイが執務室を覗くと眉を顰めて言った。
「大佐は?どこへ行ったのかしら?」
 そう言いながら視線を向けられてブレダは顔を引きつらせる。
「……少尉。大佐に直接でなく、私に言って欲しいと、この間お願いしたはずだけれど」
 スッと鳶色の目を細めて言うホークアイに乾いた笑いを浮かべるしかないブレダだった。

 ウトウトとまどろみながらハボックは夢を見ていた。ロイの姿を探して必死に歩いていたハボックは川の向こうに求める姿を見つける。ホッとして傍へ行こうとしたハボックが渡ろうとした橋はことごとく崩れて落ちてしまった。
『たいさ!』
 傍に行きたいのにその術がなく、ハボックは川のこちら側で切なくロイを呼び続ける。だが、ロイはその声には全く気付かず、向こうから来た人影に笑みを浮かべた。プラチナブロンドに青い瞳のその女性に笑いかけるとロイはその手を取る。そうして川に背を向けてゆっくりと歩き出した。
『たいさっっ!!』
 川の上を聞く人のいないハボックの声だけが響いて。遠く消えていく背にハボックの瞳からポロリと涙が零れ落ちた。

 病室の前に立ったロイは一瞬迷ってからノックをせずに扉を開ける。音を立てないようそっと開いた扉の向こうでは、はたしてハボックが紅い顔をして眠っていた。ロイは扉の隙間から中へ滑り込むと静かに扉を閉めベッドに近づく。眠るハボックの顔を上からじっと見下ろした。
「ハボック……」
 熱があるからだろう、唇を薄く開いて浅い呼吸を繰り返している。ロイは顔を寄せると熱い息を吐き出している唇を舌先で何度も舐めた。
「ん……」
 むずかるように顔を背けるハボックの顎を掴み唇を合わせる。クチュと濡れた音を立てて吸い付きながら焦点が合わないほど近づいたハボックの顔を見つめた。
「ん、あ……?」
 視線の先で金色の睫が震え、ゆっくりと空色の瞳が現れる。ロイはハボックを離すと顔の脇に手を付いてハボックを見下ろした。
「……たいさ…?」
 ハボックはぼんやりとした様子でロイを見上げる。熱に潤んだその瞳は情事の最中のようで、ロイはむしゃぶりつきたい気持ちを必死に押さえ込むと言った。
「熱があるそうだな、気分はどうだ?」
 そう聞かれてもハボックは暫くの間ぼんやりとロイを見上げていた。その顔が一瞬嬉しそうに綻ぶ。ロイがハッとして目を瞠るのと同時にハボックもハッとしてまじまじとロイの顔を見上げた。
「えっ、大佐っ?!え…えっ?」
 ハボックは一瞬ここがどこだか判らないとでも言うようにきょろきょろと辺りを見回す。それから漸くベッドに寝ている自分とそれを覗き込んでいるのがロイだと気付いて熱で紅くなった顔を益々赤らめてロイを見上げた。
「大佐、いつからここに…ッ?」
「ついさっきだが……それがどうかしたか?」
「………オレ、何か変なこと、言いませんでした?」
「変なこと?」
 訝しげに眉を寄せるロイにハボックは慌てて笑みを浮かべる。
「アッ、いや、気にしないで下さい!ちょっと夢、見てたもんで……」
 妙な事を口走りはしなかっただろうかと不安に思いながらもそれ以上言うことははばかられてハボックはロイから目を逸らした。困ったように目を背けるハボックをロイはじっと見つめていたが、それ以上その事には触れずもう一度同じことを聞いた。
「気分はどうだ?ハボック。熱があるんだろう?」
 そう尋ねながら金髪をかき上げてハボックの額に触れる。熱を持ってしっとりと汗ばむ肌に目を細めると、額に触れた手を頬へと滑らせた。
「大したことないっス。ホントは退院しても平気なんスけど、先生が寝てけって……」
 触れてくるロイの手の冷たさが心地よくてハボックはうっとりと目を閉じる。無意識に冷たさを求めて頬をすり寄せてくるハボックをロイはじっと見つめた。
「今日が退院だと思っていたからせっかく予約しておいてやったのにな」
「……え?」
「レストラン。退院祝いをするつもりだった」
 そう言われてハボックは目を開けるとロイを見上げる。心地よい冷たさを与えてくれていたのがロイの手のひらだと気付いて慌てて頬を離した。
「退院祝いって……別にそんな…」
「迷惑か?」
「そんな事ないっス!!」
 ロイの言葉にハボックは慌てて首を振る。ロイは離れてしまった頬を追いかけて再びその熱を帯びたそれに触れると指を這わせる。
「たいさ…?」
 不安げに揺れる空色の瞳にロイは笑うと手を離した。
「まあいい。退院が決まったら教えろ。どこか行きたい店でもあるか?」
「や、特にないっスけど……」
 彼女との付き合いの方を優先しなくていいのだろうかと思ったが、それを口にすることは出来なくて。そもそも彼女との結婚はどうなったのだろうかと思えば胸がチクリと痛んだがそれには触れずにロイを見て笑った。
「んじゃ、オレの好きな店でもいいっスか?オレの給料で行けるとこだから大佐の口に合うか判んねぇっスけど……」
「お前のおススメならきっと美味いんだろう?どこの店だ?」
「ああ、じゃあ…」
 ハボックはベッドの脇のテーブルに載っていたメモとペンを取り上げると店の名と電話番号を書いてロイに手渡す。
「でも、大佐。色々忙しいっしょ?無理しなくても……気持ちだけで十分っスから」
「らしくないな、ハボック。いつものようにたかればいい」
 ロイは苦笑して言うと受け取ったメモをポケットにしまい込んだ。
「それじゃあ、とっとと風邪を治せ。元気になったらこきつかってやる」
「はい。休んだ分、一生懸命やりますから」
 素直に頷くハボックの金色の前髪をくしゃりと混ぜてロイは病室を出ていく。パタンと扉が閉まると、ハボックは大きなため息をついた。
「たいさ……」
 そう呟いてロイが触れた頬に手のひらを当てる。そこだけがロイに熱を奪われたように冷たくて、ハボックは己の手に頬を擦り寄せた。
「たいさ……好き…」
 切ない吐息と共にそう囁いて、ハボックはそっと目を閉じた。


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