レヴィアタンの焔  第十九章


「よ、ハボ」
「あ、ブレダ」
 ノックに続いて入ってきた友人にハボックは窓の外に向けていた視線を戻す。ブレダは手にした袋から林檎を取り出すと棚からナイフと皿を出してベッドの傍らの椅子に座った。
「そろそろ退院だって?」
「うん。明後日」
「よかったな、思ったより早く退院できて」
 ブレダはそう言いながら器用な手つきでリンゴを剥くと8つに切って皿に載せる。
「ほれ」
「ウサギさんがよかったなぁ」
「青林檎のウサギじゃ雰囲気でねぇよ」
「いいじゃん、男の子のウサギで」
 ハボックはそう言いながら林檎を摘むとシャクリと齧った。俯き加減で林檎を齧るその様子にブレダは眉を顰める。あの事件以来、何となく覇気のない友人がブレダはふと心配になって言った。
「どうしたよ、退院できて嬉しいだろ?」
「え?あ、うん…」
 ブレダの言葉に一瞬目を見開いて、それから小さく笑うとハボックは頷く。
「あの、さ、ブレダ………あ、やっぱいい」
 何か言いかけて、ハボックは結局口を噤んだ。この間からブレダが来る度同じような事を繰り返してはしょんぼりと肩を落とすのだ。そんなハボックが何故だか癇に障ってブレダはハボックの髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「んだよっ、元気ねぇな」
「んな事ねぇよっ、ちょ……ブレダッ、林檎剥いた手で触んなっ、ベタベタしてるッ!」
「うるせぇっ、お前なんかこうしてやるッ」
「わわ、やめろって!」
 ハボックの髪をブレダは両手でぐしゃぐしゃにかき混ぜる。ベッドの上に身を起こして座ったままその手から逃れようとするハボックを追いかけて、最後には諸共にベッドの上に身を投げ出した。
「グハッ!重ッッ!!……ブレダ、どいて…ッ」
 ウェイトのある友人にドスンと圧し掛かられてハボックが悲鳴を上げる。「わりぃわりぃ」とブレダが体を起こそうとした時、ガチャリと扉が開いてロイが顔を出した。
「……何をしているんだ、お前達」
「あ、大佐」
 低い声に上司がやってきた事に気付いたブレダがそう言いながらよっこらせと体を起こす。ベッドの脇に足を下ろすとハボックに手を差し出し、ベッドの上に座りなおすのに手を貸した。
「大佐、ハボのヤツ、明後日退院だそうですよ」
 扉のところに立ったままのロイに向かってブレダが言う。だが、不愉快そうに眉間に皺を寄せたまま何も答えないロイに、ブレダは何となく不穏な空気を感じ取るとコホンと一つ咳をした。
「あー、ハボ、じゃあ俺、仕事に戻るわ。大佐、先に戻ってます」
「中尉に暫くしたら戻ると言っておいてくれ」
「えっ、あ、はいはい。言っておきますッ」
 早く戻らないとヤバイんじゃ、と思いつつも口には出さず、とりあえずこの場はとブレダはそそくさと出て行く。パタンと扉が閉まるとロイはブレダが座っていた椅子に腰を下ろした。
「明後日退院か?」
「あ、はい。その日は休みますけど次の日からはちゃんと仕事できますから」
 護衛も、と言うハボックをじっと見つめていたロイが言った。
「さっきは何をしていたんだ?」
「へ?さっき?」
 キョトンとするハボックにロイは苛々と言う。
「ブレダ少尉とだ。一体なんだ、あれは」
「なんだ、って……。ブレダがふざけて林檎でベタベタの手でオレの髪の毛いじくるから、やめろ、って言って……それで、っスけど」
 それが何なんだ、と言う顔をするハボックにロイはチッと舌を鳴らした。手を伸ばしてハボックの髪を勢いよくかき混ぜる。
「ちょ…ッ、大佐まで何するんスかッ!」
 両手で頭を抱えて恨めしげにハボックはロイを見た。その金色の髪から仄かに林檎の香りがして、ロイは益々顔を顰める。皿の上の林檎を手に取ると手の中でグシャリと握り締めたその手で、ハボックの髪をかき混ぜた。
「ワーッ!!何するんスかッッ!!」
 林檎の実と汁で髪をベタベタにされてハボックは悲鳴を上げる。その金髪からさっきよりずっと強い林檎の香りが立ちのぼると、ロイはフンッと鼻を鳴らして立ち上がった。
「また来る」
 それだけ言うと呆然としているハボックを置いて病室を出て行く。パタンと扉が閉まるのと同時に髪についていた林檎の欠片がぽとりとシーツに落ちて、ハボックはズルリとベッドヘッドに凭れ掛かった。
「な、なんなわけ……?」
 ブレダといいロイといい、一体自分が何をしたというのだと、ハボックは甘酸っぱい香りを部屋に撒き散らしながら首を捻った。

 病室を出て廊下を歩きながらロイは林檎を握りつぶした手を見つめる。その手に残る林檎のかけらをペロリと舐め取るとシャクシャクと噛んだ。
 子供じみたくだらない嫉妬だとは判っている。二人が小さい頃からの友人であり、自分の部下達の中でもとりわけ仲がいい事も知っている。さっきのもただふざけていただけで特に深い意味はないのだろう。
(判ってる。そんな事はよく判ってるんだ)
 ロイはそう心の中で呟く。それでも気軽にハボックに触れているのが赦せなかった。ハボックの髪から仄かに香る林檎の匂いをつけたのが自分以外の男なのが赦せなかった。
『なにするんスかッッ!!』
 そう叫んでまん丸に見開いた空色の瞳が愛しくて堪らない。自分の手から香る匂いが今、ハボックの髪からしてるのだと思うと笑みが浮かぶのを止められなかった。
(いっそ頭から食っちまえばよかった)
 そんな物騒な考えが頭をよぎって、ロイは苦笑を浮かべて手を握り締めた。

「も、べたべたじゃん……」
 ハボックは金色の髪に触れてため息をつく。とにかくこのままにしておくわけにはいかないとベッドから下りるとタオルを手に部屋の隅に備え付けの洗面台に向かう。蛇口を捻って水を出すと髪についた林檎を流そうとして、ふわりと鼻を掠めた甘酸っぱい匂いに動きを止めた。
「あ……」
 その途端、ロイの手が自分の髪に触れた感触を思い出す。間近に迫った黒い瞳の輝きを。そうすればその時はなんともなかった心臓が物凄い勢いで跳びはね始め、ハボックは鏡の中の自分の顔がみるみる内に紅く染まるのを見た。
「わ……オレッ」
 そう呟けば髪についた林檎の香りが一層強く感じられる。その匂いをつけたのがロイだと思うと心臓が跳ね回るのを止められない。ハボックは飛びつくように蛇口に手を伸ばすと勢いよく出した水の下に頭を突っ込んだ。ザアザアと流れる水に林檎の香りが薄れていくのにホッと息を吐く。そのまま香りが消えていくまで水を被り続けると、ゆっくりと体を起こした。びしょびしょに濡れた髪からボタボタと零れる水がパジャマを濡らし、その冷たさにぶるりと体を振るわせる。
「たいさ…、なんであんなことすんのさ…?」
 ロイがあんな事をした理由等ハボックには到底検討もつかない。だからハボックにはロイが悪戯に自分の気持ちをかき乱したとしか思えず唇を噛み締める。
「そういや、またブレダに聞き損ねちゃったな……」
 ブレダが病室に来る度ロイの結婚がどうなったのか、聞きたいと口を開くものの結局は怖気て聞くことが出来なくて。
「嫌いだ、大佐も……ブレダも…」
 半ば八つ当たり気味に呟いて、ハボックは震える体を抱きしめて蹲った。

 そのまま暫くの間蹲っていたハボックは、流石に濡れた髪とそこから流れる滴で濡れたパジャマが冷たくて、ゆっくりと立ち上がった。床に落ちたタオルを拾い上げると濡れた髪を拭く。そうしてのろのろとベッドの傍へ戻るとテーブルに置かれた袋から林檎を一つ取り出した。甘酸っぱい香りのするそれを暫く眺めていたが、ナイフを取り上げると器用に長い耳のついたウサギを切り取る。青い耳のウサギは何だか淋しそうでハボックは手の上のそれに苦笑した。
「紅いウサギだったら傍にいられたかもしれないのに」
 そう呟いて青林檎のウサギの尻を齧るとシャクシャクと耳まで全部食べてしまう。そうして濡れたパジャマのままベッドに上がるとブランケットの中に潜り込んで手足を縮めて小さく丸くなった。


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