レヴィアタンの焔  第十四章


「大佐もそろそろ年貢の納め時か?」
「年齢的にももう結婚してもいい年齢ですからな」
 司令部の扉を開けた途端、そんな会話が耳に飛び込んできてハボックはギクリと足を止める。それでもすぐいつもの笑みを浮かべて同僚達に近づくと言った。
「なに?大佐がどうしたって?」
「いや、ここのところ相手を一人に絞り込んだって話でさ」
「そろそろご結婚じゃないかと噂してたところです」
 ハボックの問いにブレダとファルマンが答える。フュリーは「はあ」とため息をついて言った。
「でも、本当に大佐が結婚しちゃったらショックを受ける女の人はたくさんいるでしょうねぇ」
「それこそイーストシティ中、いや下手したらアメストリス中の女性が泣くかもしれませんな」
「泣くだけならいいぜ。“私とのことは遊びだったの?!”とか言って結婚式に押しかけてくる昔の恋人とかいたらどうするよ」
 笑えませんよ、それ!とぎゃあぎゃあと言い合う皆の話を聞きながらハボックは内心ため息をつく。
(ここにもショックを受けてるのがひとりいるっての。……女の子じゃないけど)
 ロイがジェーンを自宅にまで呼んでいるのを見たとはいえ、改めて噂になっているのを聞くと胸が張り裂けそうなほど痛い。だからといってどうする事も出来ずにハボックがただ笑みを浮かべながら話を聞いていると、ロイが司令室へと入ってきた。
「何を騒いでいる。昼休みはとっくに終わったろう?」
 寄り集まって何やら話している部下達を一渡り見渡すとロイは言う。ロイに聞きたい事はあったものの、それは今言うべきタイミングではないと察した部下達は慌てて席に戻った。
「ハボック、コーヒーを頼む」
 ロイは部下達が仕事を始めるのを見るとそう言って執務室へと消えていく。
「アイ、サー」
 ハボックは答えて給湯室へいくとコーヒーの支度を整え執務室へと取って返した。
「コーヒーお持ちしましたぁ」
 おざなりなノックと共に中へ入ればロイがいつものように顔を顰める。こんな顔も好きだなぁと思いながらカップを差し出すとロイが言った。
「相変わらずまともなノックの出来んヤツだな」
「しましたよ、ちゃんと」
「返事を聞いてこそノックをしたと言うんだ」
 ロイはそう言いながらカップに口をつける。自分の好みの温度に整えられたそれを飲めば自然と笑みが浮かんだ。ふとつい最近のことが頭に蘇えってロイは浮かべた笑みを引っ込める。

『ぁつッ』
 一夜明けた朝食の席でジェーンの淹れてくれたコーヒーのカップに口をつけてロイは顔を顰める。やたらと熱いコーヒーに内心少しムッとしてカップをソーサーに戻せばジェーンが言った。
『ごめんなさい、熱すぎました?』
『いや、大丈夫です』
 ロイはそう言って微笑むと目の前のオムレツにてをつける。中まできっちり火の通ったそれに僅かに眉を顰めたが何も言わずに口にした。

「そういえば大佐、今、すげぇ噂になってますよ」
「噂?何がだ?」
「大佐が。そろそろ結婚するらしい、って」
 言いながらコーヒーを載せてきたトレイを小脇に抱えるハボックはロイを見ない。その空色の瞳が自分を見ない事に僅かな苛立ちを覚えてロイは言った。
「その噂が本当だとしたらお前はどう思う?」
「どう、って」
 ロイに言われてハボックは困ったように小首を傾げる。それから一つ瞬くとロイを見て笑った。
「稀代の女タラシもついに掴まったか、って思うっスよ」
「なんだ、それは」
 ロイが思い切り顔を顰めればハボックが唇の端を歪める。
「まあ、ホントに結婚が決まったら教えてください。大した事は出来ませんけどお祝いの一つもしますんで」
「……そうだな、決まったらお前達に最初に知らせよう」
「そうしてください」
 ハボックは唇の端を持ち上げてそう言うと、トレイを抱えて執務室を出て行った。パタンと閉じる扉をロイは黙ったまま見つめる。
 ハボックの口元に浮かんでいたそれが笑みだったのだとロイが気付いたのはハボックが執務室を出て行ってしまってからのことだった。

「ジャン」
 待ち合わせの喫茶店に入れば手をあげる姿にハボックは急いでテーブルへと向かう。寄ってきたウェイターに「コーヒー」と頼んで腰を下ろすと口を開いた。
「ごめん、待たせちゃって」
「平気よ、大して待ってないから」
 ローザは笑って答えるとハボックを見つめる。テーブルの上で組み合わせた手をキュッと握ると言った。
「よかった、もう会って貰えないんじゃないかって心配だったの」
 そう言ってローザは安心したように笑う。まっすぐに見つめてくる茶色の瞳にハボックは一度目を閉じて息を吐き出し、それから目を開くと言った。
「ローザ、ごめん。オレ、もう君とは会わない」
 そう告げれば見開かれる瞳にハボックは続ける。
「君とはもう会えない、ごめんね」
「……どうして?この間のこと気にしてるなら私は全然…ッ」
「この間の事だけが理由じゃないから。勿論あれもきっかけにはなったけど」
 ローザは手を伸ばすとそう言うハボックの手を握り締めた。ハボックの空色の瞳を見つめて言う。
「私、何か悪いことでもした?それなら謝るわ。だから――」
「そうじゃない、ローザは何も悪くないよ」
「だったらどうして?理由も判らずもう会えないって言われても納得出来ないわ」
 ローザの言うことも尤もだとは思う。だがその理由を言うのはいささか残酷な気がしてハボックは口ごもった。
「理由を教えて。お願い、ジャン。私の事少しでも好きなら…」
「オレ、ローザのこと、好きじゃないよ」
 ハボックの唇からスルリと零れ出た言葉にローザは目を丸くする。こんな言い方をする気はなかったが、一度言ってしまった言葉は取り消す事など出来なくてその場を居心地の悪い空気が支配した。
「でも、私にキスしたじゃない。キスして……それ以上の事だってしようとしたんでしょう?それって好きだからじゃないの?」
「好きになろうとした。好きになれればいいと思った。でも、全然ダメだった」
(君は大佐じゃないから)
 黒い髪に黒に近い茶色の瞳。白い肌に涼しげな目鼻立ちはロイと似ているようにも思えた。ローザといればこの胸の内の苦しさも忘れられるかと思った。だが結局、まがい物はまがい物でしかなくて本物への執着を思い知らされただけだった。
「ごめん、ローザ」
 そう告げるハボックの瞳はただのガラス玉で何の感情も篭ってはいない。自分のことなど全く見ていないその空色の瞳にローザは唇を噛み締めるとハボックの手を離した。
「酷いわ」
「ごめん」
「悪いとも思ってないくせに謝らないで」
 ローザはそう言って立ち上がる。今にも泣き出しそうな瞳でハボックを見るとパッと身を翻して出て行った。
「はは、オレってサイテー」
 ハボックはそう呟いてテーブルの上の己の手を見つめる。触れていたローザの手の温もりはもうとっくに消え失せてハボックはただ苦く笑った。

「中尉、女性というのはプロポーズの時に指輪を貰うのが嬉しいものなのかな」
 決裁済みの書類をチェックしていたホークアイは上司の突然の言葉に目を丸くする。まじまじとその横顔を見つめればロイが苦笑して言った。
「そんなに変なことを聞いたかな、私は」
「大佐に結婚を申し込むようなお付き合いをしている女性がいるとは思ってもみませんでしたので」
 そう言うホークアイにロイは笑みを浮かべる。
「ハボックが噂になっていると言ってたがな。君なら疾うに知っていると思っていたよ」
 そう言って笑うロイを見つめてホークアイはため息をついた。
「らしくありませんわ、ロイ・マスタングとしては」
「そうかな」
 相変わらず笑みを浮かべているロイをホークアイは見つめる。
「後悔なさいませんよう」
 それだけ言うとホークアイは執務室を出て行った。


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