久遠の空  第八章


「ハボック少尉、これも纏めておいてくれ」
「えっ?」
 書類を書いていれば積み上げたファイルの上に更に書類を積み上げられて、ハボックは驚いて顔を上げる。すると上官である中尉が意地の悪い顔でハボックを見下ろしていた。
「何か問題でもあるのか?少尉」
「……いえ」
 殊更階級を強調されてハボックは口を噤む。そんなハボックに中尉はフンと鼻を鳴らして窓際の自分の席へと歩いていってしまった。
「……」
 縦社会である軍では上下関係が厳しいのが常だが、ハボックがいる部署では殊の外それが顕著だ。階級が一つ違うだけでも格差は厳然として存在し、拒否や反論など絶対に赦されなかった。
(今日はこれから演習もあるのに……。また残業だ)
 押しつけられた書類は本来ハボックがやるものではない。自分は楽をした上で、ハボックが作った書類をさも自分が作ったような顔で提出するつもりなのが判りきっていて、ハボックはうんざりとしたため息をついた。
(転属してぇ……。でも絶対無理だろうし)
 中尉にしろその上の少佐にしろ、使い勝手の良いハボックを手放す気はないだろう。それこそウルフのように更に上の者から引き抜かれでもしない限り、ハボックが自分の処遇を変える方法などありはしなかった。
(考えても仕方ない。さっさと済ませちまおう)
 ウルフを羨んだところでなにも変わらない。ハボックはため息をつくと、押しつけられた書類を手元に引き寄せ目を通し始めた。


「大佐ぁ、今度の式典の警護、人手が足りねぇんですけど」
 ノックの音に答えれば、書類を手に執務室に入ってきたウルフが言うのにロイは書いていた書類から顔を上げる。バサバサと手にした書類で顔を仰ぐ部下を眉を顰めて見上げて言った。
「どういうことだ?お前の部隊、何も予定はなかったろう?」
「忘れたんですか?セルジオ中佐んとこに応援でいかせてるでしょ。まあ、全然足りないってことはないんですけど、あと数人でもいると助かるかなぁって」
 ウルフとしても無理をして人手が欲しいというつもりまではないのだろう。それでも一応上官に現況は知らせておくべきと言い出したのだと思いながら、ロイは「うーん」と考えを巡らせた。
「何もないとは思うが、万一なにかあった時に人手が限られるのは好ましくないな」
 ロイは言いながら机の上のカップを手に取る。すっかりと冷めきったコーヒーに流石に顔を顰めて、ろくに減っていないコーヒーを机に戻した。
「何人か回して貰おう」
「貸し出ししといて他から借りるってのも変な話ですけどね」
「仕方あるまい。そうだな、ルーカス中佐のところから、────いや、待てよ」
 言いかけてロイは、ふと浮かんだ考えに笑みを浮かべる。なにか思いついたらしい上官に、ウルフは首を傾げて尋ねた。
「誰かいい奴がいました?」
「ハボックを呼べ」
「は?なんでアイツ?」
 唐突に出てきた名に面食らったようにウルフが言う。
「何かいい評判でもあるんですか?」
 わざわざ指名で呼ぶと言うならそれなりの理由があるのだろうとウルフが尋ねれば、ロイが答えた。
「いや、特にそんな評判は聞いてないが、この間助けてくれたし飯も食ったし、全く知らない相手を呼ぶよりいいだろう?」
「別に顔見知りでなくても問題ないですけど」
 何か作戦にあたると言うならともかくただの警護だ。だがすっかりその気になってしまったロイは、ウルフの言葉にも考えを変える気にはならなかった。
「いいじゃないか。ハボックを借りよう。後はルーカスのところから二、三人。それでいいか?」
「はあ、まあ」
「なら私の方から話は通しておく。後のことはお前の方でやってくれ」
「はい」
 ロイはそれだけ言うと書きかけの書類に視線を戻してしまう。ウルフはなんとなくため息をつくと執務室を出た。
「ハボックね、まあいいけど」
 そう呟いたウルフの脳裏に先日会ったハボックの顔が浮かぶ。ロイのことを見つめていた空色の瞳を思い出して、ウルフは暫し考えた。
「教えてやるかな」
 ロイに引き抜かれたのかと聞いてきたハボックだ、きっと自分もロイの元で働けたらと思っているに違いない。たとえ何日かだけでも希望が叶うと聞いたら大喜びするだろう。
「アイツ、どこの部署だったかな」
 確かこの間の食事の時に聞いた筈だ。ウルフは手にした書類を自席に放り出すと、記憶を頼りにハボックのところへと向かった。


 ウルフが執務室を出ていく足音を聞きながら、ロイは書類にペンを走らせる。ふとそのペン先を見れば、ハボックが拾って届けてくれたことを思い出した。
「確かに助かったな」
 もう長いこと使っている愛用の万年筆だ。元々書類仕事など嫌いだが、これをなくせば益々やる気も失せていたろうと、ロイはお気に入りの軸を撫でた。
「何か礼をするか」
 あの時は「ありがとう」と感謝の言葉を口にするだけで済ませてしまったが、ロイのものではないかというだけでわざわざ夜道を追いかけてきてくれたのだ。
「私のところで使う事になりそうだし、いい機会だ」
 わざわざ呼び出すのではハボックも気を使うだろうが、自分のところで任務につくのだ、丁度いいと言えるだろう。
「なにがいいかな。また飯にでも連れていくか」
 あの夜、はにかむように笑っていたハボックを思い出して、ロイは窓の外に広がる空を見上げた。



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