久遠の空  第五章


「もう仕事は済んだか?ウルフ少尉」
 コートを片手に執務室から出てくると、ロイは大部屋の自席に座るウルフに声をかける。そうすれば、ウルフがガタンと椅子を蹴立てるように立ち上がった。
「いつでも出られます!」
 そういう様が尻尾をブンブンと振る大型犬のように見えて、ロイはクスリと笑う。頷いて大部屋を出る扉に向かえば、すぐさまウルフがつき従った。廊下を歩いていけばすれ違う軍人たちが目礼して通り過ぎる。彼らの視線が自分だけでなくウルフへも向けられていることに気づいて、ロイは肩越しにウルフを見上げた。
「注目の的のようだな、ウルフ」
「大佐直々に引き抜いたってちょっとした噂になってるらしいです」
 そう言って頭を掻くウルフにロイは僅かに目を瞠る。確かに人の好き嫌いが激しい己が自ら誰かを手元に引き取るなど、端から見れば好奇の的なのかもしれない。
「今日もその件で声をかけられましたよ」
「そうなのか?迷惑だったかな?」
「まさか!」
 ほんの少しからかう響きを乗せたロイの言葉をウルフは否定する。
「すっげぇ嬉しいです。だってこれってみんな俺のこと羨ましがってるんですよ?誰だってみんな大佐の部下になりたがってるんですから」
 そんな風にウルフが言うのに肩を竦めて、ロイは司令部の玄関を潜る。ウルフを従えて歩きながらロイは言った。
「さて、今日はお前の歓迎会だ。好きなものを奢ってやる。なにがいい?」
「ええっと……普段俺が食えそうもないものなら何でもいいです」
 そんな答えが返ってきてロイは苦笑する。それならばと賑わう通りへと足を向けて歩きながら、ロイは尋ねた。
「好き嫌いやアレルギーはないか?」
「ないです、何でもいけます」
「まあ、最初からあまり良いものを食わせると後が困るからな」
 期待してます、と思い切り顔に書いてあるウルフの様子に笑みを浮かべて、ロイは幾つか頭に浮かんだ店のうちの一番近いところへ向かおうとする。丁度その時、通りに面した店の扉が乱暴に開いたと思うと、中から数人の男たちが飛び出してきた。
「ふざけんじゃねぇぞ、コラッ!!」
「あんだとッ!テメェこそふざけてんじゃねぇッ!!」
 互いに小突きあいがなら出てきた男たちは、まだ時間も早いというのに既に酔っている様子だ。目の前で始まった小競り合いに、ロイは不快そうに眉を寄せた。
「なんなんだ、こいつらは」
 吐き捨てるように呟いたロイの言葉が、近くの男の耳に入ってしまったらしい。男は振り向くとロイのことを上から下までジロジロと眺めた。
「なんだ、テメェ。文句あるのかッ?」
「あるとも。こんな往来で喧嘩など、迷惑極まりない」
「大佐っ」
 なにもわざわざ揉め事に首を突っ込まずともと、ウルフがロイの袖を引く。だが、元々こういった類の連中を嫌悪する傾向があるロイは、黒曜石の瞳に侮蔑の色を浮かべて言った。
「酒が入らなければ言いたいことも言えんのだろうが、迷惑だ。やるなら余所でやってくれ」
 邪魔だと男たちを押し退けるようにしてロイはわざわざ男たちの中を突っ切ろうとする。当然の如く頭に血を上らせた男たちは、標的をお互いのグループからロイへと変えた。
「ふざけんなよッ!ちょっとばかり顔がいいからっていい気になってんじゃねぇぞッ!!」
「お前みたいな優男、一捻りだッ!!」
 やっちまえッ!と誰かが叫ぶのと同時に、男たちがワッとロイに襲いかかる。顔色も変えずにいるロイをチラリと見て、ウルフはため息をついた。
「もう、なんでわざわざ騒ぎを起こすんですか」
「向こうが勝手に絡んできたんだ」
 呆れたような部下の言葉を聞きながら、ロイは右に左にステップを踏んで男たちの攻撃をよける。ロイと一緒にいたばかりに一緒に攻撃に晒されたウルフは、殴り掛かってくる男の腕を掴むとグイと捻り上げた。
「イテぇッ!!」
「やめとけよ、敵うわけないから」
 ウルフは言いながら背中に腕を捻り上げた男の尻を蹴飛ばす。そうすれば前につんのめった男が、いつの間にか集まってきた野次馬の中に突っ込んだ。キャーッと悲鳴が上がれば益々騒ぎが大きくなる。ロイとウルフを巻き込んで、怒声と殴りあう音が賑わい始めた通りに響きわたった。


「なんだ?」
 どの店に入ろうかと店先を覗きながら歩いていたハボックは、なにやら前方が騒がしいことに気づく。一体なんだろうと野次馬の間をすり抜けて前へ出れば、どうやら酔った男たちが喧嘩しているらしいのが見えた。
「迷惑な連中だな」
 やれやれとため息をついたハボックは、争う男たちの中に見知った顔があることに気づく。よく見ればそれがロイとウルフであるのが判って、ハボックは目を見開いた。
「なにやってんだ、あの人」
 国軍大佐が繁華街で酔って喧嘩など、とんでもない話だ。幾らロイが国の名士で東方司令部の副司令官であるとしても、憲兵が出てくれば厄介な事になるのは目に見えていた。
「拙いだろ、これ」
 ハボックはそう呟いて憲兵の姿がないか辺りを見回す。とりあえずまだ大丈夫なのを見て取ると、大きく息を吸い込んだ。
「憲兵が来たぞッ!!こっちです、早くッ!!」
 よく通る声が争う男たちの間をすり抜けて通りに響く。ギョッとした男たちはロイとウルフに「覚えてろ!」とお決まりの言葉を投げつけて、わらわらと逃げていった。
「大佐、大丈夫ですか?」
 後に残されたウルフが傍らのロイに言う。特に怪我はしていないようだと思ったウルフの耳に、ロイのうんざりした声が聞こえた。
「服が汚れた」
「余計なこと言うからですよ」
 パンパンと袖の汚れをはたきながら言うロイにウルフは呆れたように言う。それでも一応騒ぎは収まったとホッとしていれば、辺りを見回したロイが言った。
「今の声はアイツだな」
「えっ?」
 そう言うロイの視線を辿れば野次馬の中から背を向けて立ち去ろうとする男が見える。ウルフが動くより先にロイは足早に男に近づくと、その腕を掴んだ。
「おい」
「えっ?」
 いきなり腕を掴まれて、男が驚いたように振り向く。まん丸に見開く空色を見つめてロイは言った。
「今の声はお前だろう?」
「えっ?あの……ッ」
 ロイが追ってくるなど思ってもいなかったハボックは、驚きのあまり咄嗟に言葉が出ない。うろうろと視線をさまよわせると、ギュッと目を閉じ深々と頭を下げた。
「すんません、余計なことをッ!」
 そんな風に謝るハボックにロイは一瞬目を瞠る。だが、すぐに笑みを浮かべて言った。
「いや、助かった、ありがとう」
「あ……」
 そう言って笑うロイを、ハボックは信じられないように呆然として見つめていた。


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