久遠の空  第四章


 訓練を終えてシャワールームで汗を流すと、ハボックは濡れた体を拭きながら己に宛がわれたロッカーに戻る。中から着替えの軍服を引っ張りだしていれば、すぐ側で話している声が耳に飛び込んできた。
「なあ、知ってるか?あのマスタング大佐のところに新しく配属になったって奴」
「ああ、聞いた聞いた。確かウルフ少尉とかいう奴だろう?」
 会話の中のロイの名に、ハボックは反射的に顔を上げる。自分に背を向けて話し込む男たちを手を止めてじっと見つめた。
「すげぇよな、大佐直々に引き抜いたっていうんだろ?一体どんな事して目に留まったんだ?」
「なんだ、お前知らないのか?この間の国境線での作戦で、大佐のこと助けたんだって。なんでも爆弾の閃光で一時的に視力をなくした大佐を敵陣の中から救い出したって話だぜ」
(あの時の)
 男たちの会話を聞いて、ハボックの脳裏にロイを連れていこうとする男の姿が浮かんだ。目が見えないロイに肩を貸して戦場から離れようとしていた男の横顔を思い出して、ハボックはギュッと手を握り締めた。
(そうか、アイツがマスタング大佐を助けた事になってるんだ)
 確かにロイをあそこから連れて逃げたのはウルフという少尉かもしれない。だが、実際に敵陣の真っ直中から目の見えないロイを助け出しあそこまで連れていったのはハボックだった。
(大佐を助けた功績が認められて大佐の部下になったのか……)
 あの時ロイは目が見えなかったから途中で助けられた相手が変わったことには気づかなかったのだろう。
(仕方ない、よな。実際あそこから大佐を連れて帰ったのは彼なんだし)
 そうは思うものの無意識にため息が零れるのはどうしようもない。ハボックがのろのろと軍服の袖に腕を通していると、ウルフの噂話を続けながらロッカールームを出ていこうとした男の一人の肩がハボックにぶつかった。
「あっ」
「あ、すまん」
 少しバランスを崩してロッカーの扉にぶつかったハボックに男はそう言ったものの、ろくにハボックを見もせずにすぐさま噂話に戻ってしまう。騒々しく大声で話す男たちが扉の向こうに消えるのを見送って、ハボックは深いため息をついた。
(本当はオレが助けましたって言ったら、大佐、どうするかな)
 自分も同じように部下にしてくれるだろうかと思ったものの、すぐにそんな事はあり得ないと緩く首を振る。くだらない事を考えても仕方ないと、ギュッと一度強く目を閉じてからロッカーの扉を閉め外へ出ようとすれば、ハボックが扉を開ける前に扉が開いた。
「おっと」
 鉢合わせしそうになって声を上げた男をハボックは見上げて目を瞠る。「すまん」と笑って言うとハボックの横をすり抜けて己のロッカーに向かうウルフを、ハボックは目で追った。
(コイツがウルフ少尉)
 襲いかかってくる残兵を退けて戻ってくれば、ロイを連れ出そうとしていた兵士。待てと引き留めることも出来ずあの時見送った男の背をじっと見つめていたハボックは、何度も口を開いてようやっとのこと言葉を絞り出した。
「あの」
「えっ?」
 聞こえた声にウルフが振り返る。何だと問いかける蒼い瞳を見つめて、ハボックは言った。
「アンタ、マスタング大佐のところに新しく配属になったんだって?」
「ん?ああ、まあな」
 言えばウルフが嬉しそうに顔を弛める。
「大佐を戦場から助け出したって、凄いな」
「まあ、たまたまな」
「目が見えない大佐を連れ帰るのは大変だっただろ?」
「その時は必死だったからな。でもまあ、頑張った、その働きが認められたんだから易いもんさ」
 ウルフはそう言うとシャワールームへと入っていった。
「働きが認められた、か」
 ハボックはため息混じりに呟くと、今度こそロッカールームを出ていった。


「ウルフ、今夜は時間があるか?」
 書類にサインを貰おうと執務室に入れば、不意にロイからそう言われてウルフは目を見開く。
「ありますけど、なにか?」
 大事な用件でもあるのだろうかと尋ねれば、ロイが書類に目を通しながら答えた。
「司令室での歓迎会はみんなの都合を見て追々やるだろうが、今日は私が歓迎してやろうと思ってな。どうだ、一緒に飲みに行かんか?」
「えっ?大佐が飲みに連れていってくれるんスかっ?」
「嫌か?」
 笑って書類を差し出すロイにウルフはブンブンと首を振る。
「嫌なわけないですッ!喜んでお供させて頂きますッ!」
 ビッと敬礼を寄越す部下にロイは楽しげに笑った。
「では定時までに仕事を済ませたまえ。残業になったらこの話はナシだ」
「絶対終わらせますからっ」
 ウルフは叫ぶように言って書類を引っ手繰ると執務室を飛び出していった。


「やっと一日終わった……」
 やれやれとため息をついてハボックは司令部の玄関をくぐる。冷たい風に首を竦め、ポケットに突っ込んであった煙草を取り出した。一本出そうとパッケージの底を叩いて、ふと手を止める。
「禁煙……三日坊主ってのもな」
 うー、と唸ってハボックは頭を出した煙草をパッケージに押し戻したものの、未練がましくその匂いを嗅いだ。そうすれば甘いコーヒーのような匂いが鼻孔を擽って、ハボックは慌てて「ジョーカー」と商品名の入った煙草のパッケージをポケットに戻す。ハアとため息をついてすっかりと暮れた街をゆっくりと歩いた。
「軽く食って帰るかな……」
 一人分の食事を作るのも億劫だ。呟いてハボックは今夜の晩飯を求めて賑わう通りへと足を向けた。


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