久遠の空  第四十九章


 クリス。
 クリスは大佐を救ったんだね。心優しいこの人を。
 オレは────。
 オレもクリスに救われたんだろうか。
 それとも。
 本当は救って欲しくなどなかったんだろうか。

 大佐が村のみんなを殺したりしていなかったと知って
 ホッとする自分がいる一方で、
 大佐を殺す機会を失ってしまったことを
 残念に思う自分がいる。

 復讐の名の下に。
 復讐と言う言葉を隠れ蓑に。
 大佐を殺して自分一人のものにしたかったのだとしたら。

 クリス、オレは────。


「────ック、ハボック」
「……え?……あっ、はいっ」
 物思いに沈んでいたハボックは、何度も呼びかけてくる声に漸く気づいてロイを見る。訝しげに見つめてくる黒曜石に、ハボックは慌てて笑みを浮かべた。
「すんません、ボーッとしてて」
「どうした、飲み過ぎたというほど飲んでないだろう?それとも……、嫌な話を聞かせたか。すまなかったな」
「そんな事ないっス。そうっスね……雰囲気に酔ったかな」
 苦く笑って言うロイにハボックは慌てて首を振る。一度視線を落としてそれからハボックは、真っ直ぐにロイを見て言った。
「今日はありがとうございました。すっかりご馳走になっちまって……」
「構わんさ。さっきも言ったがまた三人で来よう」
「口止め料なんしょ?そんなに中尉に知られたら拙いことがあるんスか?」
「あのなぁ……」
 クスクスと笑って言うハボックにロイが眉を下げる。
「お前、私のことをどう思ってるんだ」
 全くもうと口の中でブツブツ言ったロイは、ハボックが己をじっと見つめていることに気づいて首を傾げた。
「なんだ?」
「あ……いえ」
 一瞬何か言いたげに口を開いたものの、結局ハボックは口を閉ざしてしまう。さっきまで己を見つめていた空色が伏せられた長い睫に隠れてしまったことに妙な苛立ちを感じて、ロイは乱暴にハボックの腕を掴んだ。
「大佐っ?」
 驚いたハボックがハッと顔を上げてロイを見る。ロイはハボックの腕を掴んだまま店の扉を押し開いて外へ出た。
「大佐、あの……っ?」
 グイグイと腕を引っ張って歩き出すロイに遅れないようついていきながら、ハボックが尋ねるようにロイを呼ぶ。ロイは歩みを止めずにハボックの腕を引きながら答えた。
「もう一軒つき合え」
「えっ?でもっ」
 唐突な誘いにハボックは空色の目を見開く。ハボックは引っ張るロイの力に逆らうように足を止めて言った。
「オレ、この後約束があるっスから」
 ハボックがそう言うのを聞いてロイは足を止める。ハボックの腕を掴んだまま振り向いて口を開いた。
「誰と?」
「……古い────友人と、です」
 言葉を探すように僅かな間をおいてハボックは答える。こう言えば緩むだろうと思っていたロイの手はハボックの考えに反して緩まず、ハボックは困ったようにロイの手首を掴んだ。
「大佐……オレ、行かないと」
 そう言ってハボックが浮かべる微かな笑みがロイの不安をかき立てる。ロイは腕を離せと促すように掴んだ手をポンポンと叩くハボックに、胸元に入れていた子猫を押しつけた。
「たいさッ?」
「ソイツを預ける。今夜一晩ソイツを────」
「駄目っスよ」
 早口に言うロイの手に子猫を返してハボックは言う。
「この子はアンタの事が大好きなんスから。不用意に預けたりしたら淋しがって死んじゃうっスよ」
 その言葉にロイが目を瞠って見つめれば、ハボックはにっこりと笑った。
「じゃあ、大佐。本当に────ありがとうございました」
 ハボックは言って頭を下げる。そのまま踵を返して立ち去ろうとするハボックの背にロイは言った。
「お前も……お前も淋しくて死んでしまうだろう?もし、私から離れたら────」
「大佐」
 ロイの言葉を遮ってハボックは振り返る。ほんの一瞬ロイをじっと見つめたハボックはふわりと笑った。
「おやすみなさい」
 それだけ言うと今度こそ背を向けて行ってしまう。何も言う事が出来ないままハボックの背を見送ったロイは、頬に小さな頭をすり付けてくる子猫をそっと抱き締めた。


 足早にロイから離れて歩き出しながら、ハボックは顔を歪める。子猫を押しつけられた胸元に隠したナイフを服越しに握り締めれば、今はもういない姉の顔が浮かんだ。
「クリス……」
 ハボックの記憶の中でクリスはいつも笑っていた。きっとロイに「あと一時間したら」と言った時も笑ってそう告げたに違いない。だが、自分たちが不治の病に冒されたと知った時、絶望に泣き叫んだりはしなかったのだろうか。
「ううん、クリスならきっと最後まで笑ってたんだろうな……」
 それなら自分も、最後の瞬間まで笑っていたい。
「クリス……オレを救ってよ」
 つまらぬ望みを抱いてしまわないように。
 大好きなあの人を独り占めしたいと思ったりしないように。
「クリス……大佐……」
 辛そうに歪んでいた顔に今は笑みを浮かべて、ハボックは己を待つ男の元へと夜の道を歩いていった。


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