久遠の空  第四十八章


「ああ、こら。うろうろするんじゃない」
 発火布に噛みついて遊んでいた子猫がテーブルの上をトコトコと歩き出すの見て、ロイが慌てて手を伸ばす。だが、子猫はロイの手をかわしてテーブルを横切り、ハボックの前まで歩いてきた。
「ニャア」
 お座りしてハボックを見上げる子猫にハボックは笑みを浮かべる。空色の首輪をつけた喉元を指先で擽れば、子猫は嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「よかったな、大佐に拾って貰えて」
 ハボックは言って子猫を見つめる。マシスのところで不当な扱いを受けていたところを引き抜いて貰った事を考えると、自分もまたロイに拾われたと言えるだろうかと考えていれば、子猫がハボックの手によじ登ってきた。
「と……っ」
 子猫はよじ登った手から腕へとつたって上に上ってくる。二度ほど足を踏み外しかけてそれでも肩まで上ってくると、子猫はハボックの頬を舐めた。
「ふふ、擽ったいよ」
 ザラザラとした舌の感触にハボックがクスクスと笑う。じゃれる一人と一匹を見つめてロイも笑った。
「ああ、やっぱり同じ色だな」
「え?」
「瞳の色」
 そう言われてハボックは肩に乗る子猫を見る。小首を傾げて見上げてくる子猫にハボックは優しく笑って小さな頭を撫でた。
「次に生まれてくるときは猫に生まれてきたいっス」
「悩みがなさそうで羨ましいか?」
「そうっスね」
 クスリと笑って言うロイにハボックは曖昧に頷く。
(そうしたら誰かの感情に振り回される事もない)
 じっと見つめて頭を撫でるハボックの手から逃れて、子猫はハボックの肩から飛び降りるとロイの側へ戻っていった。
「その時はお前も一緒に飼ってやる」
「はは、お願いします。そん時は────ずっと側においてください」
 冗談混じりに言ったロイは、ハボックが返した言葉に込められた想いに気づきはしなかった。


「すみません、すっかりご馳走になっちゃって」
「構わんさ。ゆっくり出来たか?」
「はい、とても」
 微笑んでそう答えるハボックにロイは言って食後のコーヒーを飲み干す。
「また今度連れてきてやる。他にも色々お勧め料理があるんだ」
 そう言うロイにハボックは僅かに目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ウルフも連れてきたらどうっスか?きっと喜ぶっスよ」
「アイツと来たらゆっくり食えんじゃないか。次もお前とコイツと三人だ」
 言って胸元の子猫を指で擽るロイをハボックは食い入るように見つめる。その視線に気づかず、ロイは店員に会計を頼むと合図した。頷いた店員が金額を計算するのを待つ間に、ロイは懐から手帳を取り出し明日のスケジュールを確認する。開いた手帳からハラリと新聞の切り抜きが落ちたのに気づいて、ハボックは小さな紙片を拾い上げた。
「大佐、これ────」
 落ちたと言いかけて、ハボックは目に飛び込んできた記事の見出しに目を見開く。息を飲んでハボックが記事を見つめている間に、店員がやってきてロイは会計を済ませた。
「ああ、すまん。落としたか」
 ロイはハボックが新聞の切り抜きを手にしている事に気づいて言う。差し出された手に切り抜きを返しながらハボックは言った。
「大佐、それ……その記事、なんなんスか?」
 声が震えそうになるのを必死に堪えて、ハボックは尋ねる言葉を口にする。そうすれば受け取った記事に目を落としてロイが答えた。
「これは、私が以前関わった事件に関する記事だよ。私は昔────村一つ丸ごと焼き払ったんだ」
 ロイは記事から目を上げてハボックを見る。その空色が大きく見開いて己を見つめているのを見て、ロイは苦く笑った。
「恐ろしいと思うか?」
「────どうして、そんな事を?」
 奇妙にひしゃげた声で尋ねるハボックをロイはじっと見つめる。見返してくる空色をどこかで見たように思いながら答えた。
「疫病に見舞われたんだ。治療方法が判らないまま村人は次々と死んでいった。村は封鎖されて、残された村人もそのままでは死を待つしかなかった」
 ロイはそこで一度言葉を切る。当時を思い出そうとするかのように宙を見据えて続けた。
「医者も科学者も何とか治療法を見つけようとして寝る間も惜しんで必死に分析を続けた。そのまま続けていればきっと遠からず治療法は見つかっただろう。だが────軍の上層部が下した決断は“村を焼き払え”だった」
 ロイの言葉にハボックの体が大きく揺れる。爪が刺さるほど手を握り締めて、ハボックは尋ねた。
「それで……?大佐は村を焼いたんスか?────村人ごと?」
 尋ねる声が震えているのは、きっとあまりに恐ろしい事実を聞くのを人として嫌悪しているからだろうとロイは思う。ロイは苦く笑って首を振った。
「私は科学者だ。まだ助ける望みがある者をむざむざ殺したくはない。もう少ししたら治療法が見つかるかもしれないと何度も上層部に掛け合ったよ。だが、決定は変わらずあのままなら私はなんの罪もない村人たちを生きたまま焼き払うという大罪を背負わねばならなかっただろう。だが」
 と、ロイはハボックの瞳を真っ直ぐに見つめて続ける。
「一人の少女が私を救ってくれた。いや、彼女だけじゃない。村人全員が私を救ってくれたんだ」
「それって、どういう────」
「“あと一時間したら村を焼き払ってください。その時にはこの村に生きている者はいませんから”────彼女はそう言った。村人たちは私が焔を放つ前に全員自害したんだよ」
「ッッ!!」
「一時間して私は村に焔を放った。焔は大きな墓地と化した村を飲み込み、その全てを燃やし尽くした。疫病も、心優しい村人たちの亡骸も、全て。彼らはその死をもって彼らの為に何も出来なかった私を救ってくれたんだ」
 そう告げるロイの言葉を信じられない思いで聞きながら、ハボックは懐のナイフを軍服の上から握り締めてそっと目を閉じた。


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