久遠の空  第四十六章


 シャワーを浴びて着替えを済ませると、ハボックは司令室に戻る。向かいのウルフの席はもう机の上も片づいて、どうやら定時になった早々帰っていったのだと知れた。ハボックは机の上に置かれたメモに目を通し、必要な電話をかける。最後に残った一枚に書かれた名前と伝言を読んだハボックが、そのメモをクシャリと握り潰した時、ガチャリと執務室の扉が開いてロイが顔を出した。
「ハボック、すまんがコーヒーを貰えるか?」
「あ、はい。大佐」
 頷いて腰を浮かすハボックを見て、ロイは笑みを浮かべるとすぐ中へ引っ込んでしまう。ハボックは握り潰したメモをゴミ箱に放り込み司令室を出た。給湯室でコーヒーをセットし、落ちきるのを壁に凭れて待つ。する事もなくぼんやりと漂ってくるコーヒーの香りを嗅いでいれば、先ほどのメモに記された名前を持つ男の顔と、その男が引きずり出した思い出の数々が脳裏に浮かんで、ハボックは緩く頭を振ってそれを追い出した。ハボックはコーヒーサーバーを取り上げカップに注ぐと、ロイの好みに合わせて砂糖とクリームを入れる。そのカップをトレイに乗せ司令室に戻ると大部屋を横切り執務室の扉をノックした。
「コーヒーお持ちしました」
「ありがとう」
 ハボックは言ってコーヒーのカップを机に置く。もう終業時間を過ぎたというのに書類の山に埋もれているロイに、ハボックは言った。
「ほら、やっぱり。演習なんて見に来てる場合じゃなかったっしょ?」
「別にこんなのはいつものことだし、私が本気になればこんな書類の山、どうという事もない」
「……それはそれでどうかと思うっスけど」
 ホークアイが聞いたら思い切り眉を顰めそうな事をまるで悪びれた様子もなくきっぱりと言う上官を、ハボックは呆れたように見る。そんなハボックをロイは書類を書く手を止めて見上げた。
「お前は?もう仕事は終わりか?」
「そうっスね……いや、もう少し。出来るだけはやっとこうと思うんで」
「なんだ、もう定時は過ぎてるんだから、明日でいいものは明日に回せ」
「それ、中尉の前では言わない方がいいっス」
 ロイの言葉にハボックはクスクスと笑う。珍しく屈託のない笑みを浮かべるハボックを見上げてロイも笑った。
「中尉には内緒にしておいてくれ。そのかわり旨い酒を奢ってやる。これから一緒にどうだ?」
 そう言って見上げてくる黒曜石にハボックは僅かに目を見開く。迷うように言葉を探すハボックを見て、ロイは言った。
「腹が減った。この山を片付けたらメシにつき合え。これは決定事項だ。いいな、ハボック少尉」
 断りの言葉を口にする暇を与えず一息に言って、ロイは内心狡いと思う。
「あと小一時間で終わるからな。お前もそれまでにキリをつけておけ」
「────アイ・サー」
 ハボックの瞳が困惑の色を浮かべているのに気づかぬふりで、ロイは強引に話を打ち切りハボックを執務室の外へと追い出した。


「ふぅ……」
 トレイを近くのキャビネの上に置いて、ハボックは自席に腰を下ろす。机の上に広げっぱなしだった書類を手に取り目を通していった。
 本当は今日は遅くなってでも仕事にキリをつけてしまいたいと思っていたのだが、あのロイの調子ではそうはいかなそうだ。
(ちゃんと終わらせてから帰りたかったんだけどな)
 ハボックはそう考えて小さくため息をつく。ハボックはチラリと目をやってメモを捨てたゴミ箱を見た。あのメモに書かれた相手は時間の指定はしていなかった。ということはハボックが行くまで幾らでも待っているということだ。それならば多少遅くなったところで構わないだろう。
(少しでも終わらせておこう)
 全部きれいに片づかなくとも出来るだけ片しておこうと、ハボックは急いで書類に目を通し、書き込んでいった。


「よし。終わった」
 宣言通りほぼ一時間で目標まで書類を片付けて、ロイはペンを置く。ウーンと伸びをして凝り固まった筋肉を解すと、ロイは処理の終わった書類を纏めて机の隅に重ねた。ペンを片付けようと抽斗を開けたロイは、そこにしまっておいた小さな新聞の切り抜きに目を落とす。そっと手に取りもう何度も読んだ記事にもう一度目を通したロイは、その記事を手帳の間に挟んで抽斗を閉じた。
「────よし」
 ロイは己を鼓舞するように声に出して立ち上がる。チョコの缶の寝床で丸まって眠る子猫を抱き上げ、コートを手に取り執務室から出ようと扉に手を伸ばしたロイは、ふともうハボックがいないのではという不安に駆られて、勢いよく扉を開けた。
「────ハボック」
 乱暴に扉が開く音に驚いたように顔を上げたハボックの姿を見て、ロイはホッと息を吐き出す。執務室から出てきたロイを見て、ハボックが言った。
「もう終わりっスか?」
「あ、ああ。お前は?キリがつきそうか?」
「ええ、まあ」
 ロイの言葉に頷いて、ハボックは広げていた書類を束ねて抽斗に入れる。机の上をきちんと片付けて、ハボックは立ち上がった。
「お待たせしました。行きましょうか」
「────ああ」
 笑みを浮かべて言うハボックに頷いて、ロイは司令室から廊下へと出る。歩きだそうとしたロイは、ついてくる足音が聞こえない事に気づいて振り返った。
「すんません、ちょっと忘れ物。先に行ってて下さい」
「いや、ここで待っている」
 先日の事もある。思わずそう言えばハボックが目を瞠る。それでもそれ以上は何も言わず、ハボックは一度中に戻ったと思うとさほど時間をおかずに出てきた。
「すみません、お待たせして」
「いいのか?」
「はい、もう」
 ロイの問いかけににっこりと笑って答えるハボックを連れて、ロイは司令部を後にした。


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