| 久遠の空 第四十三章 |
| ロイは水の入ったコップを手にしたハボックをじっと見つめる。その顔は青褪めて相当具合が悪そうに見えた。 (夕べも気分が悪くなって帰ったと言っていたな) 食事の約束をしたにも関わらず姿を現さず、翌朝も謝罪にすら来ないハボックに苛立ちを感じていたが、この調子ではそんな事にすら気が回らなかったのかもしれない。 (何を……何を考えている……?) 二人きり食事をしながら話をすればハボックが考えていることも少しは判るかと思った。空色の瞳の奥に隠されたハボックが知りたくて、だが未だにロイには判らないままだ。 (なにか大事なことを見落としているんだろうか) ロイがそう思った時、ハボックが伏せていた目を上げてロイを見る。空色の瞳にこれまでなかった陰が見えて、ロイは目を瞠った。だが、次の瞬間には瞬きの向こうにその陰は消えて、ハボックはテーブルにコップを置いて言った。 「すんませんでした。もう大丈夫っスから」 お待たせしましたと立ち上がるハボックをロイはじっと見上げる。さっきは逸らされた視線は、今度は逸らされなかった。 「大佐?」 促すように呼ぶハボックから今度はロイの方が視線を逸らす。小さくため息をつくと立ち上がって言った。 「本当に大丈夫なのか?司令部から人を呼ばなくて」 「大丈夫っス。ご心配には及びません」 きっぱりとそう言うハボックの表情は感情を伺わせない。 「判った。では行こう」 そう言ってハボックを従えたロイは、背中に感じるハボックの視線に彼の心の内を感じさせるものはないか、そう思いながら歩いていった。 「あ、帰ってきた!」 司令室の扉を開けた途端、待ちかねたようなウルフの声が飛び出してくる。尻尾をブンブンと振った大型犬と見紛うようなその様子に、ロイは苦笑してウルフを見た。 「ちゃんと書類は出したのか?」 「出したっスよぅ。待っててくれれば視察の護衛だって俺が行ったのに」 ぶうぶうと口を尖らせて文句を言うウルフの頭をポンと叩いてロイは執務室に向かう。中に入り際振り向けば、こちらを見ているハボックと視線があった。だが、その視線はすぐにハボックの瞼に遮られてしまう。何も判らない苛立ちにロイは乱暴に執務室の扉を閉めた。 アパートに戻ったハボックは灯りのスイッチを入れる。数度瞬いてついた灯りの下、ハボックは上着を脱ごうとボタンを外した。そうすれば懐にしまったナイフの柄が肌に触れて、ハボックはナイフをそっと取り出した。 「…………」 銀色に鈍く輝くナイフを見つめれば、それを手にした姉の姿が脳裏に浮かぶ。それと同時にガルシアの昏い声が頭に響いて、ハボックは大きく体を震わせた。 『マスタングを殺せ』 脳裏に浮かんだクリスがガルシアの声で言う。覚えているまま明るい笑顔でそう言うクリスの姿はどこか空恐ろしく、ナイフを放り出してよろよろと後ずさったハボックは臑に触れたソファーに倒れるように座り込んだ。 「だって、クリス……大佐がそんな事するわけないんだ……だから」 大佐を殺す理由なんてない、そう言おうとした瞬間、ハボックの頭に声が響きわたった。 『殺せ、マスタングを』 「ッッ!!」 『マスタングを殺せ』 「やめて……やめてくれ……」 ハボックは呻くように言って両手で耳を塞ぐ。だがそうすれば一層頭の中で、ガルシアの声を纏ったクリスの声が鳴り響いた。 『殺せ』 『マスタングを』 『マスタングを殺せ』 「────」 鳴り響く声に促されるようにハボックは閉じていた目をゆっくりと開ける。床の上に投げ出されたナイフが鈍い光を放っているのを食い入るように見つめていたが、やがて立ち上がると落ちたナイフを手に取った。 「でも、クリス……大佐は、大佐の焔は」 あんなに美しいのに。 その焔を操るロイが己の欲望のまま、人の命を奪うようなことをするはずがないと、そう信じたくて、信じ切れなくて。 その心の裏側にはあの時己とウルフとを取り違えたロイへの怒りがあるのかもしれない。ふと、そんな事を思い浮かべてハボックは昏く自嘲した。 「なんで……なんでこんなもの残したのさ」 全てが焔の中に燃え尽きて消えてしまった村の中で、どうして姉のこのナイフだけがまるで何事もなかったかのようにかつての姿のままこの手の中にあるのだろう。 「オレは……どうしたらいい……?」 (オレが) (オレが大佐を殺したら) 「クリスは喜ぶの……?」 そう呟いてハボックは己の指にナイフの刃を当てる。少し力を加えれば食い込んだ刃が皮膚を裂き、紅い血が滲んだ。その血の色が昼間見たナイフを突き刺されて倒れ込むロイの幻に重なって、ハボックはギュッと目を閉じた。 「クリス……オレは……」 生きていた頃、姉はいつだって幼い自分の前を歩いていた。どうしたら姉のように迷うことなく進んでいけるのだろう。 「オレは」 (大佐を殺すのか) (それとも) ハボックは傷ついた指から己を冒す毒を絞りだそうとするように、ギュッと手を握り締めた。 |
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