久遠の空  第四十二章


 車を降りるといつものようにロイはゆっくりと歩いていく。途中、馴染みの店主や憲兵が挨拶を寄越してくるのに笑みを返して歩くロイのピンと伸びた背中を、ハボックは背後から歩きながらじっと見つめた。
『マスタングを殺せ』
 そうやって歩いていればガルシアの声が頭の中で響く。それと同時に懐に納めたナイフがその存在を主張した。
(もし、オレが)
(オレが大佐を殺そうとしたら)
 今ならロイを殺すなど簡単に出来る気がする。目の前を歩くこの背中にナイフを突き立てればいい。
 そう思えば自分の体からもう一人の自分がスゥッと抜け出してロイに近づいていく。もう一人の自分は懐から抜き出したナイフをしっかりと握り締め高々と振り上げた。そうして無防備に晒された背中に向かって思い切り振りおろす。渾身の力で振り下ろされたナイフは厚い軍服の布地を簡単に突き抜けロイの背中に達するだろう。そのままグイと押し込めば背中の皮膚を裂き肉を貫いて、ドクドクと脈打つ心臓に突き刺さる筈だった。
 柄まで深々と刺さったナイフで心臓を貫かれて、グゥと低い呻き声を上げたロイの体が刺された勢いで前に泳ぐ様が、前を行くロイの姿に重なる。振り向いたロイの黒曜石の瞳が信じられないものを見るように見つめてくる幻が見えて、ハボックはギュッと目を閉じた。
「……ッ」
 目を閉じれば日の光を正面から受けた瞼が透けて目の前に血の紅が広がる。それがまるでナイフを突き立てたロイの心臓から迸る血のように見えて、ハボックは込み上がる吐き気に口元を手で押さえた。
「グゥ……ッ」
 逆流した胃液が口中に広がって、更に吐き気を煽る。口元を押さえたままハボックは耐えきれずにしゃがみ込んだ。
「ハボック、この後────ハボックっ?」
 前を歩いていたロイは話しかけようと肩越しに振り向き、ハボックがしゃがみ込んでいることに気づいて驚きの声を上げる。慌てて駆け戻るとハボックの側に跪いた。
「どうした、大丈夫か?ハボック!…ッ?!」
 言って伸ばした手を乱暴に振り払われて、ロイは目を瞠る。振り払ったハボック自身、ハッとしてロイを見た。
「す、すんません……」
 見つめてくる空色が動揺と困惑に揺れているのをロイはじっと見つめる。その瞳が何を言いたいのか、浮かんでいるものがなんなのか見極める前にハボックはそっと目を閉じてしまった。
「すみません……ちょっと……気分が悪くて……」
「ッ、────大丈夫か?」
 そう言うハボックをロイは問い詰めたい気持ちを抑えて尋ねる。そうすればよろよろと立ち上がろうとして再びしゃがみこむハボックを、ロイは手を貸して支えた。
「ちょっと休めば……運転出来るっスから」
「無理するな、司令部から誰か────」
「平気っス!」
 誰か呼ぶと言いかけるロイの声をハボックは声を張り上げて遮る。その思いがけない激しさに互いを見つめあったが、先に目を逸らしたのはハボックだった。
「すみません……でも、本当に大丈夫っスから」
 ハボックがそう言うのをロイはじっと見つめたが、一つため息を吐いて立ち上がる。その動きを追うように見上げてくるハボックに、ロイは手を差し出した。
「立てるか?」
「────はい」
 ハボックは差し出された手を掴んで立ち上がる。立てばすぐ手が離れると思いきや、そのまま手を引いて歩き出すロイにハボックは目を瞠った。
「大佐」
「いいから来い」
 手を引き抜こうとするハボックにそう言ってロイは手を握る己のそれに力を込める。手近の喫茶店のテラス席に連れていくとハボックを座らせた。
「水を貰ってくる、待っていろ」
「大佐っ」
 そう言って店の中に入っていくロイをハボックは引き留めようと呼ぶ。だが、ロイは振り向くことなく店に入ると、少ししてコップを手に戻ってきた。
「ほら」
「────すんません」
 ハボックは呟くように言ってコップを受け取る。
「平気か?」
「はい……」
 コクリと水を喉に流し込んだハボックは、小さく息を吐いた唇をそっと噛みしめた。
(もし、オレが)
(オレが大佐を殺そうとしたら)
 心配して見つめてくるロイのその胸に、このナイフを突き刺したなら。
 止まる事なく繰り返される己の凶行の幻が、いつか現実へと変わる恐怖から抜け出すことが出来ないまま、ハボックの思考は無限のループへとゆっくりと落ちていこうとしていた。


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