久遠の空  第四十章


「次ッ!」
 ダンッと地面に叩きつけた部下をグッと押さえ込んだままハボックが言う。その声に互いに顔を見合わせた部下の一人が前に進み出てハボックと組み合ったものの、あっと言う間に地面に沈められてしまった。
「次ッ!!」
 静かだが、どこか鬼気迫るハボックの様子に、歴戦の猛者である筈の部下たちも後込みしてしまう。誰も名乗りを上げる者がいないのを見て、ハボックは眉を顰めて立ち上がった。
「次は誰だ?」
 そう言って空色の瞳が取り囲む部下たちを見回すが、誰もその瞳と目を合わせようとしない。ハボックの眉間の皺が深まるのを見た副官の軍曹が、取りなすように言った。
「ちょっと休憩にしませんか?隊長。朝からずっと休みなしじゃあ続きませんよ」
 軍曹の言葉にハボックは一瞬ムッとしたように睨んだが、それでも“判った”と呟くように言って部下たちに背を向ける。それを受けて軍曹が休憩を告げれば、明らかにホッとした空気が感じられて、ハボックはキュッと唇を噛んだ。


 結局夕べはガルシアと別れた後、どこをどう歩いたのか記憶のないまま気がつけばアパートに戻っていた。階段を手摺りに掴まるようにして重い足を一段一段持ち上げて上がっていると、ふとロイとの約束を破ってしまったことに気づく。自分に向かって笑いかけるロイの顔が頭に浮かべば、初めてロイと出会ったときの事が思い出された。あれが“出会った”と言えるのかは甚だ疑問ではあるが。
「大佐……」
 戦場の空を駆ける焔の龍。そのあまりの美しさに一瞬にして魅了されてしまった。すぐ側で破裂した爆弾の閃光で一時的に視力を奪われてしまったロイを安全な場所へ連れていこうとする途中、襲ってきた敵を己に引き寄せ退けて戻ればウルフがロイを安全な場所へと連れていくところだった。結局そのまま本陣へと連れていったウルフがロイを助けた事になり、ロイに引き抜かれて部下となった。その後偶然が重なって自分もロイの部下になりはしたが、それでもロイの危機を救った勇者はウルフのままだ。己の命を救った者として、ロイはウルフを誰よりも信頼し側に置いている。そんなウルフを嫉妬混じりの羨望の目で見つめながら、近くでロイの人となりを知れば益々ロイの側にいたくなりあの時本当にロイを助け出したのは自分だと言いたくて、だが言えなくて。
 そんな葛藤を抱えながら知った故郷の村が滅んだ理由がハボックを混乱に陥れ苦しめた。己が知るロイを思えばそんな理由は信じられなかったが、幾ら小さいとはいえ村一つ燃やし尽くすにロイの焔以外考えられないとも言えた。幼くして故郷を親兄弟を友人を奪われ、謂われない差別を受けて育った身としては、心のどこかにその発端を作った相手を恨む気持ちがなかったと言えば嘘になる。ロイを信じたいと思う心の一方でもしかしたらと疑う心がどこかにあって、ガルシアが吹き込んだ毒がじわじわとハボックの心を蝕んでいた。


 荒れる心を抑えきれないまま訓練を終えて、ハボックは演習場を引き上げる。いつもと違うハボックの様子に部下たちが戸惑いを感じているのは判ってたが、ハボックにはどうすることも出来なかった。ロッカールームに戻りシャワーブースに入ったハボックは、coldと書かれた方向へ蛇口を捻る。降り注ぐ冷たい水を頭から被って何とか心を静めようとしたものの、小刻みに体が震えるのは寒さからなのかそれとも恐れからなのか判らなくなっただけだった。
 着替えを済ませてハボックは廊下を歩いていく。司令室に向かって歩いていたハボックは、少し先の角から現れて同じ方向へ歩いていくのがロイだと気づいて足を止めた。
「大佐……」
 ホークアイと共に歩いていくロイをハボックは食い入るように見つめる。傍らのホークアイに話しかけるロイの横顔をじっと見つめていれば、ガルシアの声が脳裏に蘇った。
『マスタングを殺せ』
「ッ!」
 その声にむち打たれたようにハボックの体が震える。その震えを押さえようと爪が刺さるほど手を握り締めたハボックの背後から訝しむような声がかかった。
「ハボック、なにやってんだ?」
 聞こえた声にピクリと肩を震わせて、ハボックはぎこちなく振り向く。自分とよく似た男をなにも言わずに見つめれば、ウルフが居心地悪そうに首を傾げた。
「どうかしたのか?」
 そう言うウルフをハボックは尚もじっと見つめる。見つめてくる空色にウルフが耐えきれずに大声を上げそうになった時、ハボックの視線がフッと逸らされた。
「ハボック……?」
 ホッと息を吐きつつ、ウルフは問いかけるようにハボックを呼ぶ。ハボックは視線を逸らしたまま呟くように言った。
「お前なら、どうする……?」
「えっ?なんだ?」
 呟くように発せられた言葉を聞き取れず、ウルフは問い返す。だが、ハボックはそれには答えず廊下を歩き出した。
「おい、ハボック」
 呼びかけるウルフの声を無視してハボックは歩いていく。もうとっくにいなくなってしまったロイの背をそこにあるかのように見つめながら廊下を歩くハボックの懐で、銀色のナイフがその存在を主張していた。


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