久遠の空  第三十二章


「おはようございます、大佐」
 司令室の扉を開ければホークアイが朝の挨拶の言葉と共に立ち上がる。頷いて答えたロイが一つ空いた席にチラリと視線を向けるのを見て、ホークアイは言った。
「ハボック少尉なら今日は朝から演習の予定です」
「もう行ったのか?熱心だな」
 それほどギリギリに出勤した訳ではないのにもう訓練に向かったと聞いて、ロイは半ば呆れ半ば感心して言う。子猫を抱いて執務室に入るロイに続いてホークアイは中へ入ると、ファイルを開きながら言った。
「今日に限らずとても熱心ですわ。小隊の荒くれ連中とも上手くやっているようですし」
「そうか」
 そう聞いてロイは笑みを浮かべる。抱いていた子猫の耳元に口を寄せ囁いた。
「お前の兄弟分は上手くやってるってさ」
 擽ったそうに目を細める子猫を定位置の缶の中に下ろしてロイは促すようにホークアイを見る。缶の中にちょこんと座って後ろ足で耳の後ろを掻く子猫の頭を指先で撫でて今日の予定を説明しだすホークアイの声を聞きながら、ロイは窓の外に広がる空を見上げた。


「隊長、今日の演習ですけど」
「うん?」
 小隊の詰め所から出たハボックは声をかけてきた副官と並んで歩き出す。話しながら演習場へと向かっていたハボックは、廊下の先の角から現れた人影を見て僅かに眉を寄せた。こちらに向けて歩いてくるでもなく、マシスはホールトンを従えてハボックの行く手で足を止めて立っている。副官と並んでその前を目礼して通り過ぎようとすれば、マシスがハボックを呼び止めた。
「ハボック少尉」
 呼ばれてハボックは仕方なしに足を止める。同じように足を止める副官と共に敬礼するハボックにマシスは尋ねた。
「どうだね?変わりなくやっているかね?」
「はい、サー。日々、滞りなく任務に励んでおります」
「小隊長か。大変だろう、部隊を纏めてあのマスタング大佐の下で働くというのは」
「いえ。部下はオレが皆まで言わずとも動いてくれますし、大佐は小煩い事は言わずオレ達の思うようにやらせてくれますから」
 大変なことはなにも、とハボックが答えればマシスが笑みを浮かべる。その笑みに何か嫌なものを感じて、ハボックは早くこの場を離れようとして言った。
「申し訳ありませんが、サー。この後演習の予定が────」
「貴官に重要な話がある、ハボック少尉。ここではなんだから私の執務室へ」
 ハボックの言葉を遮ってマシスはそう言うと、クルリと背を向けさっさと行ってしまう。相変わらずの勝手な命令に眉を寄せるハボックに、ホールトンもニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて行ってしまった。
「隊長」
「すまん、先に行って始めててくれ」
「判りました」
 ため息混じりに言うハボックに頷いて、副官は演習場へと向かう。その背を見送ったハボックはもう一つため息をついてマシス達の後を追って歩き出した。


「失礼します」
 執務室の扉をノックしたハボックは入室の許可を待って中に入る。ホールトンを脇に従えて、大振りな椅子にどっかりと背を預けて座るマシスの前に立ち、ハボックはピシリと敬礼をした。そんなハボックをマシスはじろじろと見つめる。重要な話があると呼び止めて強引に執務室に来るよう命じたにもかかわらず話を始めようとしないマシスに、ハボックは眉を寄せた。
「サー、あの……重要な話と言うのは」
 仕方なしに尋ねる言葉を口にする。そうすれば、マシスが不快げに眉を跳ね上げて言った。
「私なんぞの話を聞くよりマスタング大佐の為に訓練をしたいと言うことかね?」
「そう言う訳では……」
「マスタング大佐の為に最善を尽くすとか言っていたな、確か」
 以前ロイの前で嫌みを垂れるマシスに言ったことを持ち出されて、ハボックは口を噤む。だからなんだと言いたげに見つめてくるハボックにマシスは言った。
「だが、マスタング大佐がそれほどまでに付き従うに価値がある男とは思えんがね」
「……どういう意味でしょう?」
 少なくともそう言うマシスなどよりよっぽど軍人として尊敬出来ると思いながらハボックは言う。きつい光をたたえる空色を見つめて、マシスは言った。
「マスタングは貴官の尊敬を受けるに値しない男だと言ってるんだ」
 上官を呼び捨てにした上、非礼とも言える言葉を口にするマシスをハボックは睨む。
「失礼ですが、サー。今のお言葉は不敬罪に問われかねないと思われます」
 取り消せと言わんばかりに睨んでくるハボックに、だがマシスはニタリと笑った。
「そうでもない。少なくともこれから私が言うことを聞けば貴官の気も変わる」
 マシスはニヤニヤと笑いながら言葉を続ける。
「重要な話と言うのは他でもない、マスタング大佐の事だよ、少尉」
 そう言えば僅かに見開く空色をマシスは覗き込むように身を乗り出した。
「貴官はドンレミの出身だろう?」
「ッ?!」
 思いがけないところから出てきた故郷の村の名に、ハボックは息を飲む。何も答えないのを肯定の返事と受け取ってマシスは言った。
「ドンレミ村の事件は実に気の毒だった。軍としては何とか村を助けようとしていたのだよ。だが、疫病に冒されたちっぽけな村など助ける必要などないと主張する強硬派もいた────マスタング大佐だ」
 囁くように告げられた名にハボックの目が大きく見開かれる。身を乗り出して間近から見開く空色を見つめて、マシスは言った。
「日頃から己の力を使いたくてうずうずしていたマスタングは軍の大方の反対を押し切って村に向かうとご自慢の焔で村を焼き払った。疫病に冒されながらも何とか生きる術を模索していた村の住民ごと、な」
 滴るような悪意を込めてマシスは囁く。
「私の言葉を疑うなら軍の記録を調べてみるといい。マスタングはドンレミをその住民ごと燃やした。それでもまだあの男を尊敬に値する人物だと言うかね?少尉」
「────ッ」
 ニヤニヤと笑いながら告げられるマシスの言葉を、ハボックは声もなく呆然と聞いていた。


→ 第三十三章
第三十一章 ←