久遠の空  第三十章


「どう言うことだよ、村に帰れないって!」
 ガルシアは言って牧師の胸倉を掴む。背の高いガルシアに半ば宙吊りにされるように襟元を掴まれて苦しそうにもがく牧師を見て、ハボックがガルシアの腕を引いた。
「寄せよ!そんなことをしたら聞ける話も聞けないだろっ」
「ッ!」
 ハボックの言葉にガルシアは苛立たしげに掴んだ手を離す。落ちるように地面に蹲ってゲホゲホと激しく咳込む牧師にハボックは尋ねた。
「先生、村に帰れないってどういうことなんスか?いったいなにが起こって……」
 不安と困惑に微かに声を震わせるハボックのまだ幼さの残る顔を牧師は見つめる。同じように不安に泣き出しそうになっている己の生徒たちを見回して、牧師は息を整えて立ち上がった。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ。実は────」
 口を開いた牧師が告げる言葉に生徒たちの瞳が大きく見開かれる。呆然とする生徒たちの中で、逸速く気を取り直したガルシアが言った。
「なんだよ、それ!一月前俺達が村を出るときは何ともなかったんだぞ!そんな事あるわけないだろッ!」
 ガルシアの声に他の生徒たちも口々に「あり得ない」「信じられない」と叫ぶ。確かに今牧師が言った事はあまりに突拍子もなく俄には信じられないような事だった。むしろ一番信じられないのはそう告げた牧師自身だったかもしれない。
「信じられないのは無理もない。だが本当なんだ、もう村の大半の住人が亡くなり、治療法も判らない。このままだと感染した他の住民たちもいずれ……」
 それでも、今ここにいる唯一の大人として軍から告げられた内容を事実として伝えない訳にはいかない。正体不明の疫病に冒された村の絶望的な現況を告げる牧師を見つめて、ハボックが言った。
「父さんと母さんは……?クリスはどうなったんスか?」
 空色の瞳を見開き恐怖に震える声で尋ねるハボックを牧師は見つめ返す。軍から聞かされた死者の中にハボックの両親の名があったことを思い浮かべて、牧師はゆっくりと首を振った。
「ご両親は亡くなった。クリスも感染したと……」
「そんな……」
 低く告げられる恐ろしい事実にハボックはガックリと跪く。ショックで上手く息が出来ず苦しげに浅い呼吸を繰り返すハボックを、ガルシアが背後から抱き抱えるようにして支えた。
「ハボック……っ!先生っ、嘘だろッ!みんな俺達が出かける時、笑って見送ってくれたんだッ!それなのに、し、死んだなんて……ッ」
 縋るように見つめてくる幾つもの視線から逃れようとするように牧師は目を背ける。
「とにかく、今村は隔離閉鎖されている。万一疫病が村の外へ広がるようなことになれば大変だからだ」
「それじゃあ村は……村のみんなはどうなるんだよッ?」
 少なくとも村にはまだ生きている住民がいる筈だ。隔離閉鎖された村に閉じ込められて、彼らは一体どうなるんだと生徒たちが口々に尋ねた時、背後から声が聞こえた。
「今、軍としてどう対処するか検討中だ」
 その声に生徒たちが一斉に振り向く。そうすれば青いアメストリス軍の軍服を着た軍人が後ろ手に手を組んで立っていた。
「検討中って……助けてくれるんスよね?まだ生き残ってる人が沢山いるんでしょ?」
 ハボックはガルシアの腕に縋りつくように体を支えて尋ねる。肯定の答えを期待して見つめてくる視線に、軍人は嫌そうに顔を歪めて答えた。
「検討していると言っただろう?勿論その中には治療法を探すと言う選択肢もある」
「助けてッ!お願い、お父さんやお母さんを助けてッ!」
「治療法はあるんでしょッ?早くみんなに薬をッ!」
「お願い!」
 言った次の瞬間、一斉に助けを求める言葉が軍人にぶつけられる。わっと縋るように次々と伸びてくる手を振り払って、軍人は後ずさった。
「とにかく!村は立ち入り禁止だッ!おい、ガキどもをさっさと連れていけッ!」
 軍人はそう怒鳴ると逃げるように行ってしまう。今は待つしかないと近くの宿へ連れて行かれたハボックやガルシア達が、村が焼き払われたと聞いたのはその一週間後の事だった。


 アパートの階段を駆け上がり部屋に飛び込んだハボックは、乱暴に閉めた扉に背を預ける。暫くの間ギュッと目を閉じて扉に寄りかかっていたが、やがてゆっくりと中に入っていった。デリの袋をテーブルに放り投げ、ドサリとソファーに腰を下ろす。顔を両手で覆ってハボックは深いため息をついた。
「今更帰って……何があるって言うんだよ」
 あの日、村の学校の教師でもあった牧師に連れられて一ヶ月のサマースクールから戻ってきたハボック達は、生まれ故郷を突然襲った未曾有の厄災に為す術もなく、気がついた時には家族も帰る場所も何もかも失ってしまっていた。傷ついた心を癒す時間も与えられぬまま散り散りに施設や里親に引き取られ、引き取られた先では疫病に滅んだ村の生き残りと言うことで理不尽な差別を受けて育った。両親や姉と暮らしていた頃は明るくやんちゃな少年だったハボックも、そんな差別の中で己の感情を押し隠し他人との関わりを避けるようになっていった。一刻も早く一人で生きていく術を身につけ、誰の手も借りずに生きていけるようになることがその時のハボックの最大の望みであり、それを実践するのに一番の近道である軍人を選んだのはごく自然な成り行きだった。技量を磨き知識を高めて生き延びる事、それが故郷を失ったハボックに出来る全てだった。
「帰ったってもう誰もいないんだ……」
 優しかった両親も明るく気の強い姉も、飼っていた犬も猫も、その背に乗って走るのが大好きだった馬も、美味しい乳を沢山出してくれた牛も、仲の良かった友達も、色んな事を教えてくれた年嵩の隣人も、誰一人ハボックを待っている者はいない。
「そんなところに帰るより、オレは────」
 役に立ちたい人がいる。例え己の手を一番に必要としてくれなくても、それでも今自分が出来る全てで彼の力になりたいのだ。
「オレは帰らないよ、ガルシア。大佐の側にいたいんだ」
 顔を上げたハボックは真っ直ぐに前を見つめて、はっきりとそう言ったのだった。


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