久遠の空  第二十七章


「はあ……」
 資料を繰っていたホールトンは大きなため息をついてがっくりと項垂れる。マシスに命じられてロイのこれまでの経歴を調べに調べていたマシスだったが、輝かしい経歴にはマシスが言うような“ネタ”などどこにも見当たらず、むしろこれを見たらマシスの怒りが倍増すること間違いなしだった。
「張り合うだけ無駄だっていい加減気づいてくれんだろうか……」
 確かに今まで雑用を全て押しつけていたハボックをロイに引き抜かれたのは痛かった。さっきの書類の整理だってハボックがいれば「やっておけ」の一言で済んだが今はそうはいかない。ここは幾ら張り合ったところで敵う筈のないロイをどうこうするより、ハボックの代わりになる人材を一刻も早く部下として配属させて欲しかった。
「とは言え、言える筈もないしな……」
 マシスに意見するなど以ての外だ。そうであれば何とかマシスが喜ぶような情報を見つけるしかなかった。
「マスタング大佐の弱みになるような、ねぇ……」
 ホールトンは呟きながら資料に目を通す。何度目を通したところでマシスが喜ぶような話は出ては来ず、ホールトンはため息をついた。
「そんなもんあるわけないだろうが。相手は焔の錬金術師だぞ」
 そうぼやいたホールトンのページをめくる手が一瞬止まる。そこに記された事件の概要を読んだホールトンだったが、やがて肩を竦めて言った。
「こんなの弱みにはならんだろうなぁ。寧ろ被害を最小限に抑えた英雄だ」
 とはいえ、正直他にマシスに報告するような話もない。
「仕方ない。取りようによってはマスタング大佐の足をちょっとくらい引っ張れるかも知れないし、それが無理でもこれを見せれば中佐も諦めてくれるかもしれない」
 出来ることなら諦めて、もっと建設的な事に目を向けて欲しい。ホールトンは広げた資料をガサガサと集めると、マシスに報告するために席を立った。


「失礼します、ホールトンです」
 入室の許可を得て執務室に入ったホールトンは、期待に満ち満ちたマシスの顔を見て思わず逃げ出したくなる。それでも報告しないわけには行かず、ホールトンは嫌々ながらもマシスの前に立った。
「どんな事だ?早く言え」
 ロイを陥れるネタがあるのを前提にそう言うマシスにホールトンは泣きたい気分になる。それを押し隠して、ホールトンはマシスの前に資料を提出した。
「マスタング大佐の経歴は実にご立派なものでした」
「それで?」
「それで、って……」
「幾ら立派なものでも隠しておきたい汚点の一つや二つはあったろう?」
 そう言って先を促すマシスの顔を見ていられず、ホールトンは視線をさまよわせる。うろうろと視線を動かして答えないホールトンに、マシスはバンッと机の上を叩いた。
「さっさと報告しろッ、ホールトンッ!!」
「マスタング大佐には弱みになるような過去の経歴は見つかりませんでしたッ!!」
 怒鳴り声に怒鳴り声で返すようにホールトンは大声で答える。ピシッと直立不動でそう報告するホールトンを、マシスは食い入るように見つめた。
「今、なにやら妙な言葉が聞こえたが、ホールトン中尉。まさか何も報告する事がないなどとはいわんだろうな?」
「いえ、ですからその……マスタング大佐の経歴は実にご立派で弱みになるようなことはなにも……」
 モゴモゴと答えてホールトンはマシスの様子を上目遣いに見る。己を見つめるマシスの瞳が怒りに燃えているのを見て、ホールトンは慌てて言った。
「あっ、ですがっ、もっ、もしかしたらこの事件なら取りようによっては弱みと言えないこともないかもッ」
 ホールトンはそう言うとマシスの手元の資料に手を伸ばす。バサバサと書類をめくり、目的のページを見つけるとマシスの前に差し出した。
「これは?」
「覚えておられませんか?十年近く前になりますか、東部の田舎の小さな村で正体不明の疫病が発見された事件」
「ああ、治療方法も判らない上、感染力が強くかかれば百パーセントの死亡率、今世紀最悪の疫病と言われたあれか。確か感染が外へ広がるのを防ぐために村を封鎖して焼き払ったのじゃなかったか?」
 当時連日のように新聞の紙面を賑わせていた疫病のニュース。結局アメストリス全土に感染が広まらぬよう、感染者を隔離した上村はそのウィルス諸共焼き払われた筈だった。
「ふん……」
 マシスは事件の詳細が書かれた資料を指先でめくりながら考える。何が何でもロイを陥れられないかと頭をフル回転させて考えていたマシスだったが、やがてニヤリ笑って言った。
「この事件、実はマスタングが村人諸共村を焼いたとしたらどうする?」
「えっ?ですが感染した村人は隔離されたと……」
「隔離したのが村の外とは限らんだろう?」
 そう言うマシスをホールトンは目を見開いて見つめる。マシスは楽しげに書類を指先で叩いて言った。
「資料によると村には生き残りがいるようだ。そいつらを探し出しお前らの村を村人諸共焼き殺したのはマスタングだと吹き込んで、マスタングを親兄弟の仇だと思わせるんだ。奴らが騒ぎ立てればマスタングの評判もがた落ちだ」
「いや、ですが」
 きちんと調べればそれが根も葉もない噂だと判るだけではないのだろうか。マシスの怒りを買わない為に自分から事件のことを口にしたものの、思いがけずマシスがその気になってしまったことで怖じ気付いたホールトンがそう言えば、マシスは唇を笑みに歪めて答えた。
「火のないところに煙は立たないと言うだろう?そんな噂を立てられること自体問題なんだ。それに噂が立てば他にも色々出てくるかもしれんぞ」
 マシスはそう言うと楽しげに低く笑う。
「よし、ホールトン。この村の生き残りを捜せ。三日以内だ、いいな!」
「そっ、そんな……っ、幾ら何でも無茶苦茶────」
「さっさと行け!ぐずぐずするなッ!見つけられなかったらどうなるか判っているなッ?」
「イ、イエッサーッ!!」
 マシスの怒鳴り声に追い出されるようにして執務室を飛び出しながら、とんでもないことになってしまったと我が身の不幸を嘆くホールトンだった。


「それじゃあ、大佐。また明日」
「ああ。おやすみ、ウルフ」
 自宅の玄関先で敬礼を寄越すウルフにそう答えて、ロイは鍵を開けて中へ入る。灯りが着いたのを確認したウルフが車に乗り込み走り去る音を聞きながら、ロイは奥へと入っていった。リビングのテーブルに置かれた籐製の籠に子猫を下ろすとキッチンへと入っていった。
「ニャア」
 その途端甘ったれた鳴き声を上げる子猫にロイは急いで猫缶を取り出す。専用の餌入れに中身をあけ、子猫の元に戻った。
「そう急かすな、ジャン」
 ロイが言ってテーブルの上に餌入れを置けば、子猫が待ちきれないと言うように籠の縁に身を乗り上げる。乗り越えられずにジタバタする小さな体を摘み上げて餌入れの側に下ろしてやれば、子猫は待ってましたと言わんばかりに餌の中に顔を突っ込んだ。
「落ち着いて食え。喉に詰まるぞ」
 そう言うロイに、子猫が顔を上げて「ニャア」と鳴く。
「いい子だな、ジャン」
 言って指先で撫でてやると空色の目を細める子猫に、ロイは愛おしそうに笑った。


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