久遠の空  第二十四章


 ウルフは足音も荒く司令部の廊下を歩いていく。大柄なウルフが険しい表情を浮かべてもの凄い勢いで廊下を歩けば、怖いもの知らずの軍の猛者たちですら壁際に寄って道を開けた。
「あ、ウルフ少尉、おはようござぃ……ま、す……」
 バンッと叩きつけるように開いた扉に、書類を書いていたフュリーが顔を上げる。入ってきたウルフに朝の挨拶を投げかけたものの、その蒼い瞳に睨まれ言葉が小さく萎んでいった。
「……何かあったんですか?」
 それでもその辺は普段から気性の激しい上官を持つフュリーらしく、不機嫌の理由を尋ねてみる。ウルフは陽気な性格でこんな風にあからさまに不機嫌なのは珍しく、その理由に対する好奇心が押さえられなかったとも言えた。
「大佐は?」
 だが、ウルフはフュリーの質問には答えず苛々と聞く。どうやら自分の好奇心は満たして貰えそうにないと察して、フュリーは質問を繰り返すことなく答えた。
「外で会議があるとかで直行ですよ」
「ハボックが運転してんのかッ?」
 その途端、噛みつくように言われて、フュリーは眼鏡の奥の目を見開く。パチパチと瞬きして、フュリーは答えた。
「いえ、中尉が一緒です」
「────そうか」
 一緒に行ったのがホークアイだと聞き、ホッとしたかのようにウルフの肩から力が抜ける。ウルフはドサリと自席に腰を下ろすと、ハアと息を吐き出した。それから数瞬おいて懐から煙草のパッケージを取り出し火をつける。茶色の紙巻きから立ち上る独特な甘い香りが広がる中、ウルフは苛立たしげに腕を組んだ。
「ハボックは?」
「えっ?あ……まだです」
 ウルフの様子を横目でそっと伺っていたフュリーは不意に尋ねられ、一瞬の間をおいて答える。そうすればウルフはまるでその答えが気に入らないとでも言うようにチッと舌打ちした。
「あの……何かあったんですか?」
 フュリーは一度諦めた質問をもう一度口にしてみる。だが、やはり答えがないのにやれやれとため息をついた。
「くそ……ッ」
 仕方なく書類に目を戻したフュリーの耳に、ウルフが苛々と呟くのが聞こえる。思わずフュリーがチラリとウルフを見た時、司令室の扉がガチャリと開いた。
「おはようっス」
 聞こえた声にフュリーが視線を向けるのと、ウルフが椅子を蹴立てるようにして立ち上がったのがほぼ同時だった。ウルフはハボックが司令室の中に入ってくるより早く歩み寄るとハボックの胸倉を掴む。驚きに目を瞠る空色を間近から睨んで、ウルフは言った。
「話がある、ちょっと来い」
「えっ?ちょ……ウルフっ?」
 グイグイと引っ張られていくハボックと険しい表情のウルフの姿を目を丸くして見送るフュリーの視線の先で扉が閉まる。
「…………なにがあったんだろう」
 結局知りたい答えを得られぬまま、フュリーは扉を見つめて呟いた。


「ウルフ?!痛いっ、腕、離せッ!」
 何が何だか判らないまま腕を鷲掴んで引っ張られ、ハボックは痛みに顔を歪めて声を上げる。だが、ウルフはむしろ掴む手に力を込めてハボックの腕を握ると、中庭に続く扉から外へと出た。少し奥へ行ったところで突き飛ばすようにハボックから手を離す。突き飛ばされた勢いで数歩足を踏み出したハボックは、ジンジンと痛む腕を押さえてウルフを振り返った。
「なんなんだよ、一体っ」
 訳も判らず中庭にまで連れ出されて、ハボックはウルフを睨む。ウルフの手が離れてからも掴まれていた箇所が指の形に痛み、服の下にはくっきりと指の痕が残っていると思えた。
「ウルフ?」
 だが、答えないままただ睨みつけてくるウルフにハボックは眉を寄せる。ウルフがどうやら怒っているらしい事は判ったが、その怒りを向けられる理由がハボックには判らなかった。
「一体なにがあっ────」
「お前、夕べ大佐と一緒だったろう」
 言い掛けた言葉を遮るように聞かれてハボックは口を噤む。目をパチパチと瞬かせて、ハボックは答えた。
「一緒だったけど……」
 夕べロイと一緒にいたのは確かだ。もしかしてロイを車で送った事を怒っているのだろうかとハボックが思った時、ウルフが言った。
「お前が送るって言ったのか?」
「えっ?違うよ。たまたま大佐が帰ろうとしてたところにオレが通りかかったら、大佐が車を出せって」
「大佐は警備兵に車を出させるって言ってたんだぞ。それがなんでお前が運転してるんだよッ」
「なんでって……」
 自分が通りかかったのは偶然だ。偶々ハボックが通りかかり、丁度猫の首輪を買いたいと思っていたロイには車を出させるには丁度よかっただけなのだろう。
「偶々だろう?そりゃ……お前の仕事取っちまって悪かったけど……」
 自分だって一応お伺いは立てたのだ。本来ロイがハボックよりウルフの方に重きを置いているのはハボックだって知っている。ロイが己の命を助けてくれたのがウルフだと信じている限り、ロイにとって特別な存在なのに違いなかった。
 俯いて呟くように言うハボックを見ていたウルフはやがてゆっくりとため息を吐き出す。そうすれば顔を上げる空色を見つめて、ウルフは言った。
「ごめん、悪かった」
「ウルフ?」
「その……なんか大佐が俺のこと、どうでもよくなっちゃったんじゃないかって思ってさ」
 苦笑いしてそう言うウルフをハボックは目を見開いて見つめる。それからため息をついて言った。
「そんなわけないじゃん。大佐は……オレなんかよりお前の方をずっとずっと信頼してるよ」
「そっ、そうかな?」
「うん」
 ハボックの言葉にウルフが顔を赤らめる。小首を傾げて笑みを浮かべるハボックに、照れたように笑いながら言った。
「ホントに悪かったな。なんかちょっと心配になっちゃって」
 ウルフはボリボリと頭を掻く。掻いた手をハボックに伸ばして言った。
「ごめん。これからも一緒に大佐のこともり立てていこうなっ」
「……うん」
 ニッと笑って差し出された手を、ハボックはほんの少し躊躇ってから握り返す。
(幸せな奴……)
 本当ならそんな風にロイに信頼されていると自信を持って笑えるのは自分だったはずなのに。
(でもってオレは……)
 いつまでも諦めきれずにウルフを羨むことをやめられない。ハボックはホッとしたように笑うウルフに気づかれないよう、そっとため息をついた。


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