久遠の空  第二十一章


「にゃあ」
 と鳴いた子猫が、入れられたチョコレートの空き缶から身を乗り出す。よいしょと短い脚で縁を乗り越えて缶から出てきた子猫が、書類の上をテトテトと歩いた。
「こらこら、そこを歩くんじゃ────ああっ、サインがッ」
 書いたばかりのサインを子猫の肉球が踏みつけて、書類に黒い足跡が出来る。ロイは子猫の首根っこを摘むと、メッと額を突きつけて睨んだ。
「まったくもう、大人しくしていろ」
 ロイは言って子猫を缶に戻す。子猫が不満げに鳴いた時、ノックの音がしてホークアイが入ってきた。
「あら」
 缶の中の子猫を見て、普段はクールな副官が顔を綻ばせる。優しい笑みを浮かべて子猫の額を指先で撫でれば、子猫が擽ったそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
「可愛いですわね。どうなさったんですか?この子」
「内気な犬が拾いたくて、でも拾えなくて鳴いてたんでな」
「は?」
 ロイの説明を聞いて、ホークアイが目を丸くしてロイを見る。ニャアと催促するように鳴く子猫に目を戻して撫でてやったホークアイが言った。
「あら、この子の瞳、青みがかってますわね」
「そうか?」
 言われてロイは顔を突き出して子猫の顔を覗き込む。ニャ?と首を傾げる子猫の瞳をしげしげと見つめてロイは言った。
「本当だ────あいたッ」
 近づけた顔を肉球でペチッと叩かれてロイが顔を顰める。小声で文句を言いながら鼻先を撫でるロイにクスリと笑ったホークアイは、汚れた書類を見て眉を寄せた。
「大佐、書類は丁寧に扱って下さい」
「汚したのは私じゃないぞ」
「子猫のせいにするなんて」
 コイツだと子猫を指さすロイにホークアイは呆れたため息をついて、汚れた書類を他のものと一緒にして集める。中身をチェックするとムッと鼻に皺を寄せているロイに言った。
「結構です。────そちらの新聞、切り抜きですか?やっておきます」
「ん?ああ、頼むよ」
 チェックがつけられた新聞が机の端に置いてあることに気づいてホークアイが言えば、ロイは頷いて新聞を取り上げる。そのまま渡そうとして、ふと思い立ったように抽斗からハサミを取り出した。
「これは貰っておく。今の仕事には無関係の記事だ」
 ロイは言ってちいさな記事をハサミで切り取る。ほんの三十秒ほどで読める記事の小さな見出しを目にして、ホークアイは僅かに目を見開いた。
「人が住めるようになったんですのね」
「……ああ、そうらしいな」
 ホークアイの言葉に頷いて、ロイは切り取った記事にもう一度目を通す。ふと目を上げればホークアイが見つめてきているのに気づいて、ロイは苦笑した。
「大丈夫だよ、中尉」
「それならよろしいのですが」
 ロイの言葉にホークアイも小さく息を吐く。それ以上はなにも言わず書類と新聞を手に執務室を出ていった。パタンと閉じた扉を見つめたロイは、もう一度記事に目を落とす。それから抽斗を開けるとその記事をしまった。小さくため息をつくロイの耳に子猫が「ニャア」と鳴く声が聞こえる。視線をやればじっと見つめてくる青みがかった瞳に、ロイは笑みを浮かべた。
「お前を拾ってくれた奴に似てるな。もっともアイツは犬だが」
 ロイは言って子猫の顎を撫でてやる。嬉しそうにロイの手に頭を擦り寄せる子猫を見て、ロイは笑みを深めた。


「ハックシッ!」
 両手で口を押さえてくしゃみを押さえ込むハボックを書類を書いていたウルフは手を止めて見る。ズズッと鼻をすすったハボックがガタンと立ち上がり司令室を出ていくのを見送っていたウルフは、背後から聞こえた声に肩越しに振り向いた。
「大佐」
「コーヒーをくれ」
 それだけ言うとロイはすぐ執務室に引っ込んでしまう。ウルフは書類を裏返すと立ち上がり、給湯室に向かった。
「ハボックがいればやらせんのに」
 セットしたコーヒーが落ちきるのを待ちながら、壁に寄りかかってウルフは呟く。煙草を吸いながらコーヒーの香りが強く漂い始める給湯室の壁に凭れて、ウルフは今朝方のハボックの様子を思い浮かべた。
「大佐となんかあったのかな」
 始業時間ぎりぎりに飛び込んできたハボックの髪はしっとりと濡れていた。その後、いなくなったハボックを追うように司令室を出ていったロイは、暫くしてハボックを連れて戻りそのまま執務室にこもってしまった。何かあったのかと正面の席に座ったハボックをチラチラと盗み見れば、濡れた軍服をタオルで拭いていたハボックの空色の瞳がほんの少し笑みに解けるのが見えたのだ。
「────くそ」
 ウルフは吸っていた煙草を足下に落として踏みつけると、落ちきったコーヒーをカップに注ぎミルクと砂糖を入れて掻き回す。カップをトレイに載せて給湯室を出たウルフは、司令室に戻ると大部屋を横切り執務室の扉を叩いた。
「コーヒーお持ちしました」
 中に入り机の上にコーヒーの入ったカップを置く。書類の山の間に置いてある缶をなんとなしに見遣ったウルフは、見上げてくる子猫と視線が合ってギョッとして身を引いた。
「えっ?猫ッ?」
 驚いて声を上げれば子猫が「ニャア」と答える。
「どうしたんスか?こいつ」
「ん?ああ、ハボックが拾ったんだ」
「ハボックが?それがなんでここにいるんです?」
 コーヒーを啜りながら答えるロイに、ウルフは更に尋ねる。だが、ロイは詳しい説明を省いて「まあ、色々な」と答えるに留めて書類を手に取った。じっと見つめてもそれ以上は何も言わないロイに、ウルフは不満げにため息をついて子猫を見た。
「あれ?コイツの目、青っぽいっスね」
「ああ、そうだな」
「俺と似てるっスね」
 そう続ければ、ロイが「えっ?」と声を上げる。驚いたようなその声にウルフが目を瞠ると、ロイが苦笑した。
「そうだな、似てるな」
(……大佐?)
 答えて優しく子猫の頭を撫でるロイを、ウルフは食い入るように見つめていた。


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