久遠の空  第二章


「ハボック少尉!」
 装備を確認していると背後から聞こえた上官の声に、ハボックは立ち上がって振り向く。ピシッと直立不動の姿勢をとるハボックを、上官の少佐が睨んで言った。
「さっきは姿が見えなかったな。どこへ行っていた?」
「中尉殿から退却の殿(しんがり)を務めるように言われましたので、部隊の一番後方におりました」
 そう答えるハボックに、少佐は傍らの副官を見遣る。渋々といった様子でハボックの言葉を肯定して頷く副官を見て、少佐は軽く舌打ちした。
「ここもすぐに引き払う。さっさと残りの装備を纏めろ、我々の分もだ」
「はい、サー」
 ピッと敬礼を寄越すハボックに少佐はフンと鼻を鳴らして背を向ける。足音も荒く上官が立ち去ればホッとため息をつくハボックに、側で成り行きを見ていた曹長が言った。
「あの、私がやりましょうか、少尉」
「ありがとう。でも大丈夫、オレがやるからいいよ」
「でも」
 自分より階級が上のハボックにやらせるよりはと言う曹長に手を振って、ハボックはその場を離れる。上官達が残した荷物を手際よく纏めていれば、背後からヒソヒソと言う声が聞こえた。
「いいからほっとけよ」
「でも、あの人、少尉だろう?」
「いいんだって。目ぇつけられてんだよ、少佐達に。下手に関わるとお前もやられるぞ」
 そう言われて手を貸してくれようとした曹長がギョッとする気配が伝わってきて、ハボックは苦笑した。
(まあ、慣れてるけどさ)
 多少の嫌がらせは気にさえしなければどうという事もない。ハボックは荷物を纏めながらついさっき見た光景を思い出していた。
(凄く綺麗だった。あんな焔、見たことない)
 このままでは部隊が退却する前に敵に囲まれてしまうかもしれない。部隊の殿にあってハボックがそう思った瞬間、空を走り抜けた焔。蒼い空に鮮やかに舞う焔にハボックは一瞬にして魅了されてしまった。それを一人の男が生み出しているのだと気づいて、ハボックは少しでも近くで見たいと部隊から離れた。白い手袋を填めた指先から舞い踊る焔を生み出す黒髪の男。美しく燃え上がる紅蓮の焔を操る男に瓦礫の陰から見とれていたハボックは、男のすぐ側で爆弾を握る敵に気づいて彼に注意を促そうとした。だが、そう思った時には時既に遅く、男のすぐ側で爆弾が爆発したのを見てハボックは男の安否を確認しようと隠れていた瓦礫の陰から飛び出した。男が無事であるのを見てホッとしたのも束の間、自分に向かって突き出された白い手袋を填めた手に、ハボックは慌てて自分は敵ではないと告げた。話しかけた男の瞳が焦点を結ばない事に気づいて、一時的に視力を失った男を安全な場所へと連れていこうとしたのだが。
 最後の最後で敵と鉢合わせてしまった。男を瓦礫の隙間に押し込み、自分に引き寄せた敵をを何とか倒して元の場所に戻った時、男の側には既に少尉の肩章をつけた軍人がいて彼を助け出そうとしており、ハボックは近づくことが出来なかった。結局そのまま見知らぬ少尉が男を助けて連れ帰るのを見送ったハボックは、既に退却を終えた部隊を慌てて追いかけたのだった。
(真っ黒な瞳だったな。あんな瞳もあるんだ)
 ハボックは覗き込んだ男の瞳を思い出して考える。これまで黒に近い茶色の瞳をした人は見ても、あんなに真っ黒な瞳は見たことがなかった。
(ちゃんと見えていたらどんな感じだったんだろう)
 焦点が合わずぼんやりと霞んでいても男の瞳は美しかった。
(今度はちゃんと見えるときに会ってみたいな。あの綺麗な焔を生み出す人に)
 舞い踊る焔を思い出せば何故だか胸がドキドキする。ハボックがホウと一つため息をついた時、背後から怒鳴りつける声が響いて、ハボックは慌てて最後の荷物を放り込んだ。


 国境線での小競り合いが暫く続いた後、漸く敵を退けてロイ達はイーストシティへと戻ってきていた。束の間の平穏とも言える日々、机の上を占拠する書類の大軍に辟易してロイは、ホークアイがいない隙を見計らって執務室から逃げ出す。廊下を歩き中庭に続く扉をくぐると、秋の陽射しの中いつも昼寝をする自分の特等席まで歩いてきたロイは、そこに先客がいることに気づいた。
「ウルフ少尉」
「えっ?……あっ」
 丁度人目につきにくく休むのに都合よく張り出した枝の上でのんびりと幹に凭れていたウルフは、聞こえた声に驚いて身を起こす。自分を見上げている黒曜石に気づいて、目を丸くした。
「マスタング大佐」
「そこは私の特等席なんだが」
「えっ?そうなんスか?」
 そう言われてウルフは慌てて枝から下りる。笑みを浮かべて立っているロイの前に立つと、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すみません、大佐のお気に入りの場所、勝手に使っちまって」
「まあ、名前を書いてある訳じゃないから降りろと言えるものでもないんだが」
 ロイは長身を縮めるウルフに笑って言う。鼻孔を掠める甘い香りに、ロイはウルフが咥える煙草を見た。
「そうか、あの時の香りは煙草の匂いだったのか」
「えっ?」
 突然そう言われてウルフは蒼い目を丸くする。ハッと気づいたウルフが慌てて煙草を消そうとするより早く、ロイはウルフの口元に手を伸ばすと咥えている煙草を手に取った。
「変わった煙草だな」
「よく言われるっス。アークロイヤル・ワイルド・カードって煙草なんスけど」
 そう言われてロイは手にした濃い焦げ茶色をした煙草を鼻先に持っていく。そうすれば独特なコーヒーのような香りが鼻孔を擽った。
「いい香りだ。見た目も洒落てるな」
 そう言いながらロイは火の点いた煙草を一口吸ってみる。その途端僅かに顔を顰めるロイに、ウルフはクスリと笑った。
「キツいっしょ?煙草吸い慣れない人には向かないと思いますよ」
「香りに騙された」
 ロイは言ってウルフの唇に煙草を戻す。じっと見つめてくる蒼い瞳を見ていれば、不意にあの戦場で聞こえた声が脳裏に蘇った。
『大丈夫、心配ない』
 そう言った青い光にロイは己の無事の帰還を確信したことを思い出して、うっすらと笑った。
「大佐?」
 突然黙り込んでしまったロイに、ウルフは不思議そうに首を傾げる。そんなウルフを見て、ロイは言った。
「どうだ?少尉。私のところへ来る気はないか?」
「え?」
「私の部下にならんかと言っているんだ」
 そう言うロイをウルフはポカンとして見つめる。暫くして漸くロイの言葉が脳味噌に届いたと言うように、ウルフはコクコクと頷いた。
「なるっ、なりますッ!」
「よし、それならすぐ手配しよう。ついてこい、少尉」
「はいっ、大佐!」
 頷いて歩き出すロイに、顔を輝かせてウルフは後を追ったのだった。


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