久遠の空  第十五章


 食事を終えてロイと別れた後、途中まで一緒だったウルフとも別れて、ハボックはアパートへの道を歩いていく。サアとまだ冷たさを残す風が吹き抜けて、ハボックは自分が地面ばかり見つめて歩いていることに気づいた。
 こうやっていつも俯いて過ごすようになったのはいつからだったろう。以前は自分もウルフのようにもっと賑やかに顔を上げて歩いていた筈なのに。
「もう、忘れたな、そんなの」
 ハボックは苦く笑って呟く。気がつけばもうアパートのすぐ側まで来ていて、ハボックは残りの距離を走ってアパートの階段に辿り着くとガンガンと大きな音を立てて駆け上がった。ポケットから鍵を取り出しガチャガチャと乱暴に回すと部屋に入る。後ろ手に鍵を閉め狭いリビングの灯りをつけると、殺風景な部屋が灯りの中に浮かび上がった。
 ハボックはドサリとソファーに腰を下ろし背もたれに体を預ける。ぼんやりと天井を見上げれば不意にロイに言われた言葉が思い出された。
「私のところで働く気はあるか、だってさ」
 突然かけられた思いもしなかった言葉。そう聞いた瞬間は単純にとても嬉しかった。だが、「良かったな」と喜ぶウルフの顔を見れば「何故?」という疑問が頭をもたげてくる。あの戦場でロイは自分を助けたのがウルフだと思い、その功でウルフはロイのところへ引き抜かれた。それなら何故ロイは自分を手元に引き取ろうと考えたのだろう。
『この二週間の様子を見て、と言えば納得するか?』
「納得するわけないじゃん……」
 たかが式典の警護、最後に不審者を捕らえたとは言え大した働きもなかったのに。
「ウルフが言ったから、だろうな」
 人懐こいウルフ。ハボックがロイの元で働きたいと思っている事を知って、きっとロイにハボックを引き取るよう進言したに違いない。
「ウルフの口利きで大佐んとこいって、オレ、なにをするんだろう」
 結局はロイがウルフを重用するのを見ている事しか出来ない気がする。
 ハボックはため息をつくとテーブルの上に起きっぱなしになっていた煙草に手を伸ばした。一本取り出し火をつければ独特な甘い香りが部屋の中に広がっていく。
「そういやあの日以来かも」
 戦場から戻ってからは吸うのをやめていた。そう思えば煙草の香りと共にあの日の出来事が思い出されて、ハボックは一口吸っただけの煙草を灰皿に押しつける。そうして煙草の香りから逃げるように浴室に入っていった。


 送るというウルフを追い返したロイは、一人夜道を歩いていく。思いの外明るい景色に空を見上げれば、月が真っ暗な空の上で煌々と輝いていた。
「明日もよく晴れそうだ」
 雲一つない夜空を見上げてロイはそう呟く。そうすれば頭の中で星が巡り月が西の空に沈んで青く済んだ空が広がった。空想の空を見上げたロイは、その空と同じ色の瞳を持つ青年のことを思い浮かべる。彼がほんの一瞬浮かべた優しい笑顔と、普段の遠慮がちに俯く顔が同時に思い出されて、ロイは僅かに眉を寄せた。
『ありがとうございます、サー。でも……なんでっスか?』
 ふと思いついたまま自分のところで働かないかと持ちかけた。何故と聞かれて、ロイはその理由を答えられなかった。
「何故……。何故だろうな」
 ロイはゆっくりと歩きながらそう自分に問いかける。恐らくはウルフに引けを取らない能力を持つであろうハボック。そんなハボックがマシスのところで飼い殺しにされているのが歯がゆく、自分ならもっと上手く使ってやれるに違いない。そう思ったから声をかけた。ハボックに聞かれた時そう答えてやればよかったのだ。だが。
『何故ですか?サー』
 どこか必死さの滲む声にロイは最初に告げた言葉を繰り返せなかった。マシスより自分の方がハボックの能力を引き出せるのは間違いないのに、ハボックが求めているのはそんな言葉ではない気がして言えなかったのだ。
『サー』
 呼んで見つめてくる空色を思い出せば記憶の奥底が揺さぶられるようで、ロイは眉をしかめた。
「どこかで……どこで?」
 もっと以前にあの空色を見たような気がする。だが、思いだそうとすれば記憶の蓋は堅く閉ざされて全く思い出せなかった。
「ハボックを手元に引き取れば」
 何か判るだろうか。
 ロイは軽く頭を振ると、月の光が照らす道を家へと歩いていった。


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