個人授業  第九章


 家に帰った後もなんだか頭がぐちゃぐちゃで晩飯の味もよく判らなかった。先生と一緒にマオの店に行って今まで知らなかった先生の事を少しだけど知ることが出来て、先生の家も判って。本当ならウキウキした気分の筈なのにベッドに潜り込んだオレはどっぷりと落ち込んでいた。
(あの電話の人、誰なんだろう…)
 ヒューズって呼んでた。そう呼んでいた時の先生の顔を思い出すと胸が痛くなる。あんな優しい顔、するんだと思ったら見たこともないヒューズという人物に嫉妬が沸き上がった。
「あ、もしかして一緒に住んでるとか」
 唐突に頭に浮かんだ考えに、思わずそう声に出してオレはベッドの上にむくりと起き上がる。あんな広い屋敷、とうてい一人で住んでいるとは思えず、そう考えれば先生のあの表情も嫌だと思いながらも納得出来た。
「恋人……なのかな」
 あの先生に恋人がいない方がおかしい。今更ながらにそんなことに思い至ってオレは唇を噛み締める。先生に恋人がいると思っただけで胸が苦しくて涙が零れそうになった。
「いやだ、そんなの…」
 先生が好きだ。誰にも渡したくなんてない。
 オレは頭から布団を被るとボロボロと涙を零した。

 その週はもう先生の授業はなくて、図書室にも先生は現れず、先生と顔を合わせる機会がなかった。同じ学校にいながらこんなにも距離があるなんて、今更ながらに気づいて辛くて溜まらなくなる。
 教室の机にぼけらと頭を預けていると、ブレダがやってきてオレの頭を小突いた。
「おら、何落ち込んでるんだ、お前」
「ブレダ…」
「図書委員、ないなら俺んち来るか?一人でうだうだしてるよりいいだろ?」
 ブレダはそう言うとオレの学ランの襟首を掴む。グイグイと容赦なく引っ張る手にオレはグエッと呻いてみせた。
「いてぇよ、ブレダ」
「情けない顔してっからだ。ほら、帰るぞ、ハボ」
 ブレダはそう言って手を離すとさっさと教室から出ていく。帰りのHRが済んで部活に行く者は行き、帰る者は帰り、もうほとんど残る者のいない教室を後にしてオレはブレダの後を追った。小走りに駆けてブレダの横に並ぶ。そのまま何も言わずに学校を出てブレダの家に向かった。
 自分の家の前を通り過ぎ、ブレダの家に入る。いつものようにブレダが飲み物を用意する間にさっさと2階へ上がりブレダの部屋に入った。鞄を投げ出して、自分の体もベッドに投げ出す。ベッドの上にあったでかい熊のぬいぐるみをギュッと抱き締めていると飲み物を持ったブレダがやってきて嫌そうに言った。
「それはマスタング先生じゃないからな。妙な気、起こすなよ」
「…熊には欲情しねぇ」
 オレはそう言ってからハタと気づいてブレダを見る。
「えっ、もしかしてこの熊、そう言うことに使って――」
「んなわけあるかっ!この間従兄とゲーセン行って当てた奴、いらねぇからって置いてったんだよ。俺だっていらねぇけど捨てにくいだろ、こんなの」
 そう言われてオレは腕の中の熊をしげしげと見る。ガラスで出来た真っ黒なつぶらな瞳で見つめてくるソイツは、確かに捨てるにはかわいそうだった。
「はああ…」
 オレは熊のぬいぐるみを抱き締めてため息をつく。そうすればブレダが床に座り込んで言った。
「んで?お前はなにを落ち込んでるんだ?」
 そう聞いてくるブレダをオレは見つめる。床に座ってジュースを飲みながら俺のことを見返すブレダの瞳にオレを気遣う色が見えて泣きたくなった。
「先生、恋人いるのかもしんねぇ」
「へぇ、先生がそう言ってたのか?」
「ううん、この間先生の家に行ったんだけど」
「えっ、お前、先生の家に行ったのかっ?なんでっ?」
 驚くブレダにオレは偶然先生の家に行くことになった日の話をする。ブレダは黙ってオレの話を聞いていたけど、オレが全部話終えたと見ると口を開いた。
「でも別に先生がその人に好きだとか言った訳じゃないだろ?恋人と特定出来るような呼び方をしたでもなし」
「そうだけど、すっごい優しい顔してたんだ。先生のあんな顔、見たことない…」
「ごく親しい友人とか家族とかかもしれないじゃないか」
 ブレダはそう言って手を後ろについて壁に頭を預けると言う。
「あのなぁ、ちゃんと判ったことでもないことでうだうだしてなんかメリットあんのか?気になるなら聞きゃいいだろ?先生に」
「聞けねぇよっ、そんなのっ」
「だったら悩むな」
「そんなこと言ったってっ」
 無理だと喚こうとしたオレの顔にクッションが飛んできた。そのせいで言葉を飲み込まざるを得なくなったオレにブレダが言う。
「悩む暇があったら自分を磨け。先生に恋人がいようがいなかろうがお前を見てもらわなかったら話になんないだろうが。違うか?」
「ブレダ…」
「んで、ちゃんと先生に言え、好きだって」
 そう言われてオレは熊の肩に顔を埋めた。
「言えるかなぁ」
「言わなきゃいつまでたってもお前の気持ちは伝わらねぇ」
 きっぱりとそう言われて情けない顔でブレダを見れば頼りになる幼馴染みはニヤリと笑う。
「まあ、泣き言言いたくなったらいつでも聞いてやっから」
 いつまでも落ち込んでんじゃねぇよ、ブレダはそう言ってオレの髪をワシワシとかき混ぜた。小さい時からオレを励ましてくれたその手の感触を暫く味わった後、オレはブレダに言った。
「なあ、この熊、貰ってもいい?」
「お、持っていってくれるのか?困ってたんだ、でかいし」
 遠慮せずに持ってけと言うブレダに礼を言って、オレは熊と一緒に家に戻った。

 自分を磨けと言われたところで正直なにをしたらいいのかなんて判らなかった。オレはまだ17で学生で出来ることといったら勉強とスポーツくらいしか思いつかない。仕方ないから今までよりもう少し勉強を頑張ってもう少し真面目にスポーツに取り組むことにした。と言っても、どっか部活にでも入ったら先生の手伝いもしづらくなるし、そうなったら全然スポーツする意味がない。なんて言ったら真面目にスポーツやってる奴に殴られそうだけど、オレのスポーツはあくまで自分のレベルをあげる為の手段であって目的ではないのだから仕方がない。結局悩んだ末、オレは走ることにした。朝と晩と毎日2回。勉強や行事の都合もあったから毎日同じ距離とは行かなかったけど、それでもオレは休むことなく走り続けた。これは結構オレの性にあったみたいで、1週間もすると走らないと調子が優れなかったりした。
 走るのと同時にオレは本も読むことにした。本好きな先生と少しでも話が出来るよう、その時どきに話題になってる本には極力目を通すようにした。
「委員長、なんかオススメの本、ないっスか?」
「お前、本なんて読むのか?」
 そう尋ねればヘスティングが意外そうに答える。
「だってオレ、図書委員だし」
 思わずムッとして言うオレにヘスティングはおもしろそうに言った。
「違うだろ、お前は」
「なんで?オレ、図書委員スよ?」
 一緒に仕事だってしてるのにそんなことを言うヘスティングに眉を顰めたが、ヘスティングは笑うばかりでそれ以上説明しようとはしなかった。それでも読みやすい本を幾つか選んでくれたので貸し出しの手続きをして貰う。そうやって授業中に先生の顔を見るだけの毎日をオレなりに一生懸命過ごしていたある日、オレは件の人と顔を合わせることになった。

「ハボック、今帰りか?」
「マスタング先生」
 委員会の当番を終えて帰ろうとしていたオレの背に先生が声をかけてくる。先生とこうして話すのは久しぶりでオレは顔が赤くなるのを止められなかった。
「先生も今帰りっスか?」
「ああ、途中まで一緒に行こう」
 そう言って歩き出す先生と並んでオレは歩く。話したいことがいっぱいあった気がしたのに、いざこうして話す機会に恵まれれば言葉はちっとも出てこなかった。
「この間は悪かったな」
「え?」
 突然そんなことを言い出した先生にオレは目を丸くする。オレが判ってないことに気づいた先生は困ったように首を傾げて言った。
「ほら、マオの店から本を持って帰る手伝いをして貰った日、ちゃんと礼も言えなくて」
「ああ、そのことっスか。別に気にしてないっスから」
 気にしてるのはそんなことじゃなくてあの電話の相手のこと。聞くなら今しかないんじゃないか、そう思ってカラカラに乾いた喉に何度も唾を飲み込んで何とか尋ねようとしたその時。
「よお、ロイ」
 陽気な声がかかって振り向いたオレたちの視線の先、その男は立っていたのだった。


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