個人授業  第三章


 結局今日は科学と英語を少しやっただけで終わってしまった。それだってオレにしたら物凄い勉強量だ。
「動かしたら頭の中身が零れそうな気がする…」
 帰り際にそう言ったらブレダが苦笑する。
「お前は頭悪いわけじゃねぇんだから、やる気さえ起こせば心配ねぇよ」
 相変わらず優しいブレダにオレはへらりと笑って見せた。
「んじゃ、また明日、今日はありがと、ブレダ」
「おう。次は数学教えたる」
「ひぃ」
 ブレダは教え方は上手いがスパルタだ。それでも根気よく教えてくれる友人に感謝の言葉を言ってオレはブレダの家を出た。
 晴れ渡った空は星がとても綺麗だ。まるでマスタング先生の瞳のようでオレは空を見上げながら歩いていった。いつかあの瞳を間近で見られたらいいのに、なんてそんな事を考えながら歩いていたら。
「うわっ」
「わわっ、ごっ、ごめんなさいっ!」
 前をよく見ていなかったオレは曲がり角で丁度やってきた人とぶつかってしまう。体のでかいオレに当たってよろめく相手に咄嗟に手を伸ばして支えたオレは、その相手が誰だか気付いて目を丸くした。
「マスタング先生っ?」
「…ハボック」
 オレもビックリしたが先生もビックリした様子でオレのことを見上げる。咄嗟に掴んでしまった手を慌てて離すとオレは先生に言った。
「今帰りっスか?」
「ああ、思ったより時間がかかってしまってね。そういうお前こそ帰ったのは随分前だろう?」
 何をウロウロしていたんだ、と言う先生にオレは唇を尖らせる。
「遊んでたわけじゃないっスよ。ブレダんちで勉強教えて貰ってたんス」
 オレがそう言えば先生は「ああ」と言う顔をした。
「そう言えば地元だったな、お前達は」
「おかげでギリギリまで寝てられるっスよ」
 ニヤリと笑って言うオレに先生も笑う。
「なら私だって同じだ」
「えっ、先生も地元なんスか?」
「元々ここに住んでいたわけじゃないが、マクヴァルで教える事になった時に近所に家を借りんたんだ」
 知らなかった。駅の方に歩いていくからてっきり他所から通ってるんだと思ってた。何処に住んでるんだろう、教えてもらえないだろうか、そんな事を思った時、オレの腹の虫がグゥと鳴った。
「わわ…」
 ブレダんちでパン食ったのに。なんだか恥ずかしくて顔を紅くして腹を押さえたオレを見て先生がくすりと笑う。先生はオレを見上げると言った。
「駅前の喫茶店でケーキでも食べるか?それくらいなら夕飯にも響かんだろう?」
「えっ、先生、奢ってくれんのっ?」
 咄嗟にそう言ってしまってから慌てて口を押さえる。先生はクスクスとおかしそうに笑った。
「いいとも、それくらい奢ってやる」
「…やった!」
 オレが小さく叫べば先生はオレを促すようにして歩き出す。先生はオレが奢ってもらえるのを喜んでると思ってるみたいだけど、オレは奢ってもらえるという以上に先生と喫茶店に行けるのが嬉しくて仕方なかった。
(だって、デートみたいじゃんっ)
 いつもこっそり影から先生が帰るのを見てるだけだったのに喫茶店でケーキだって!ウキウキしながら先生の後をついていけば、いつしか人で賑わう駅前の通りへと出てきていた。先生は迷う様子も見せずに一直線に目指した店に入っていく。入口で立ち止まって店構えを見上げれば、そこはオレ達みたいな高校生が来るにはちょっと不釣合いなシックなつくりの店だった。
「ハボック、どうした?」
 店の前で立ち止まって入ってこないオレに先生が不思議そうに言う。オレが慌てて先生の後を追って店の中に入ると先生はカウンターの中の髭のマスターに笑いかけた。
「こんばんは、マスター」
「いらっしゃい、先生。おや、珍しい。生徒さんかい?」
 そう言われてオレはペコリと頭を下げる。優しい笑みを浮かべるマスターに先生が言った。
「教え子でね。奥、いいかな」
「どうぞ。最近の子は大きいねぇ」
「コイツは一際デカイんだよ」
 そんな風に言われるとなんだか猫背になってしまう。オレは首を竦めて先生の後について行くと奥のボックス席に腰を下ろした。先生が渡してくれたメニューを見て、オレはクラブハウスサンドとコーヒーを選ぶ。オーダーを取りに来たウェイトレスの子に先生はオレのと合わせてケーキセットを注文した。ウェイトレスが行ってしまって二人きりになると急にドキドキしてくる。オレは必死に胸のドキドキを押さえ込んで先生に聞いた。
「ここ、よく来る店なんスか?」
「ん?ああ、ケーキが美味しいんだよ。甘すぎなくて」
「先生、ケーキなんて食べるんだ」
「お前は食わんのか?」
 凄く意外そうな顔で言われてオレは顔を顰める。
「甘いもん、苦手なんスよね、オレ」
「そうなのか?美味いのに、勿体無い」
 先生は心底勿体なさそうにそう言った。オレにしてみりゃ甘いもん食うより同じ腹を塞ぐならパンとかスパゲッティとか食った方がいいと思うけど。そんな風に思った時、さっきのウェイトレスがトレイを手にやってくる。
「お待たせしました」
 そう言いながら彼女が先生の前に置いたのはチョコレートケーキ。可愛らしくデコレーションされたそれは、美味そうというより物凄く甘そうに見えてオレは内心うへぇと舌を出した。
 オレは先生の男にしてはほっそりとした手がコーヒーにミルクと砂糖をたっぷりと入れるのを見つめる。こっちも甘そうだなぁと思った時、先生がオレを見て言った。
「どうぞ、食べていいぞ」
「あ、はい。いただきますッ」
 先生が食べ始めたら食べてもいいかな、と思っていたけどいいぞと言われたのでサンドイッチを手に取りガブリと噛みつく。カリカリのベーコンとゆで卵が凄く美味い。でかい口をあけてサンドイッチを食べるオレを先生は目を丸くして見ていたが楽しそうに笑って言った。
「いい食べっぷりだな」
「だって、これ、スゲェ美味いっスよ?先生も食う?」
 オレはそう言ってサンドイッチを一つ先生に差し出す。先生はちょっと悩んでサンドイッチを受け取るとケーキの皿をオレの方へ押しやった。
「じゃあ交換な」
「えっ、オレ、甘いもんは苦手だからいいっスよ」
「いいから食ってみろ。絶対美味いから」
 自信満々に言う先生にオレは仕方なしにケーキのとんがったところをちょっとだけフォークで切り取って口に運ぶ。絶対甘すぎて死ぬ、と思ったそれは意外にもサラリとした甘さでオレは目を丸くした。
「あ、美味いかも」
「だろう?」
 思わずそう言ったオレに先生がフフンと笑う。オレはもうちょっとだけケーキを食べると言った。
「ケーキって意外と美味いもんなんスね。知らなかったっス」
「だから美味いと言ったろう?おい、いい加減返せ。私の分がなくなる」
 先生はそう言ってオレの手からフォークを奪い取る。ケーキの皿を自分の方へ引き寄せると、ケーキを切り取り嬉しそうに口に運んだ。先生がフォークを口に含んだ瞬間、オレはある事に気付いて思わず「あっ」と声を上げてしまった。
「…どうした?」
 叫んだ口を手で押さえるオレを先生が訝しげに見る。キョトンと見つめてくる黒い瞳にオレは慌てて手と首を振って見せた。
「な、なんでもないっス!」
 そう言えばまだ不思議そうな顔をしてはいたが、先生は再びケーキを食べ始める。それを見ていたオレは心の中で叫んだ。
(オレが使ったフォークッ!!)
 ナフキンで拭いたりせずにそのまま使ってた。それってそれって。
(間接チューじゃんッ!!)
 そう思った瞬間顔が真っ赤になったのが自分でも判った。先生はそんな事これっぽっちも思ってないの判ってる。判ってるけど。
「どうした?顔が紅いぞ?」
「えっ!?いや、ちょっと暑いなぁって」
 不思議そうに見つめてくる先生を、オレはまともに見ることが出来ずにただガツガツとサンドイッチを食べたのだった。


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