個人授業  第十三章


 その後オレはコーヒーを飲みながら1時間ほども先生とたわいもない話をした。オレが「錬金術のはじまりの本」をマオのところで買ったのだと判ると、先生は本気で悔しがってた。
「まさかマオのところでそんな本まで置いてるとは」
 思いもしなかったと、もうだいぶ冷めたコーヒーを相変わらず熱そうに啜りながら先生が言う。先生との話のネタになるとマオはこの本を薦めてくれたけど、先生はマオに本を探してるとか子供の頃から大好きだったとか、そんな話をしてたんじゃないかと思ってそう尋ねれば先生は首を振った。
「いや、この話をしたのはお前で二人目だな」
 二人目。それじゃ最初に話したのは。
「ああ、ヒューズだよ。よく判ったな」
 オレがぼそりと尋ねれば先生は意外そうに答える。オレはちょっと悩んだ末先生に聞いた。
「あのヒューズって人、先生とどういう関係なんスか?」
 そう尋ねて先生が顔を赤らめでもしたらどうしよう、って思ったけど今更言った言葉を引っ込めるわけにもいかない。先生が答えるまでのほんの一瞬がとてつもなく長く感じられて、先生は漸く答えた。
「ヒューズか?アイツは学生時代の友人だよ」
「学生時代の?」
「ああ、私が通っていた高校は全寮制でね。アイツとは2年間同部屋だった。本来同じ相手とは続けて同じ部屋にはならない筈なんだがね。どういう細工をしたんだか」
 と、先生はおかしそうに笑う。それから懐かしそうに目を細めて続けた。
「私は人付き合いが苦手でね。それをこうして人前で教鞭を振るおうとまで思うようにさせてくれたのがヒューズだよ」
「後の1年は一緒の部屋じゃなかったんスか?」
「3年の時は学年長で一人部屋だった」
 そう言って学生時代に思いを馳せる目をする先生を見ているのが辛くなってオレはコーヒーのカップをテーブルに置くと立ち上がる。ハッとしてオレを見上げる先生に向かって言った。
「オレ、そろそろ帰りますね」
「…そうか。悪かったな、引き留めて」
「いえ、オレこそこんな時間に図々しく上がり込んじゃって」
 すんませんでした、と頭を下げるとオレは先生に背を向ける。その途端、先生の手がオレの腕を掴んで、オレは驚いて振り返った。
「あ…いや、その…今度その本、持ってきてくれるか?」
「持ってきて、って、学校で渡すんじゃなしにここへっスか?」
 てっきり学校で渡すものとばかり思っていたオレは先生の言葉に首を傾げる。先生は恥ずかしそうに俯くと言った。
「いや、ほら、そんな子供向けの本、学校で貸し借りするのは何となく恥ずかしいじゃないか」
「はあ、先生がそう言うなら持ってきます」
 オレがそう答えれば先生はホッとしたように笑う。その先生に笑い返して部屋を出ようとすれば、今度は先生も引き留めなかった。一緒に玄関まで出るとオレがピョンピョンと飛んで体を解すのを見つめる。
「気をつけてな、ハボック。寝不足で遅刻するなよ」
「先生こそ」
 それじゃあ、と頭を下げてオレはまだ夜明けには時間のある通りを走り出す。角を曲がるところでちらりと後ろを振り向けば、寒そうに肩を竦めた人影が見えた。それに向かって手を振れば、答えるように腕が振られる。それに続いて小さく聞こえたくしゃみにクスリと笑ってオレは角を曲がった。
「寒いんならさっさと戻ればいいのに」
 そう呟きながら、オレは顔が弛むのを感じていた。

 家に帰ってシャワーを浴びてもまだ起き出すには早い時間だった。そうとはいえもう一度眠る気にもなれず、オレはベッドで寝ていた熊を引きずり起こすとギュウギュウと抱きしめる。この数時間はあまりに密度が濃くてすぐには消化できそうにない。オレは暫くの間ギュウギュウと抱きしめていた熊に顔を押しつけていたが、ふと思い出して顔を上げた。
「そうだった、本!」
 夕べ寝しなに枕元に放り投げた本をオレは慌てて拾い上げる。パラリとめくれば現れるフラスコを持った不思議な老人にオレの目は吸い寄せられた。
「これ……マオに似てる」
 見れば見るほどその男とも女ともつかぬ老人はマオとそっくりに見えてくる。
「先生も気づいてるのかなぁ」
 そう呟きながらオレはそのマオによく似た老人が誘い込む世界へとのめり込んでいった。

「ジャン!起きて!もう朝…っ、あら、起きてたの」
 ドンドンと扉を叩いて顔を出した母さんが目を丸くしてオレを見る。オレは反射的に本から顔を上げて母さんの空色の瞳を見返したけど、一瞬自分がどこにいて何をしているのか判らなかった。
「ジャン?起きてる?あなた、本読んだまま寝てるの?」
 何も言わないオレに部屋に入ってきた母さんが言う。そのほっそりとした指が心配そうに額に当てられて漸く、オレは目を瞬かせると母さんを見た。
「起きてる。なんか本に没頭してた」
「まあ、珍しい」
 母さんはそう言ってオレの膝の上の本を見る。マオによく似た老人の挿し絵を目にして首を傾げた。
「不思議なおじいさんね。なんだか生きてるみたい」
「えっ?どういうこと、母さん?」
「もう朝ご飯できてるわ。早くしないと遅刻するわよ」
 母さんはオレの質問に答えずそう言って部屋を出ていく。オレは挿し絵の老人をじっと見つめてそれからそっと本を閉じた。

 急いで朝飯をかきこむと制服に着替え家を飛び出す。そうすればちょうどブレダが家を出てきたのが見えて、オレはブレダが来るのを待ってから歩きだした。
「おはよ、ブレダ」
「おう」
 ブレダはそう答えるとオレの顔を見る。あんまりじっと見つめてくるから、なんだよ、と視線で聞けばブレダが答えた。
「なんかいいことあったのか?」
 そう尋ねてくるブレダにオレは目を丸くする。
「ブレダって魔法使い?マオみてぇ」
「はあ?訳判んないこと言ってんじゃねぇ」
 ブレダはそう言って眉を顰めた。で?と促されてオレは答える。
「昨日、つか今日?先生んち行ってきた」
「は?今日?」
「うん、眠れなくて夜明け前にジョギングしてたら先生の顔が見たくなって」
 と、先生の家でのことを話せばブレダがいきなり立ち止まった。どうしたんだろうと足を止めてブレダを見ればブレダはうんざりしたようにため息をつく。
「お前さぁ、そこまでしててどうして好きだって言ってこないんだ?」
 そんなこと言ったって言うタイミングなかったし。
「一生言えねぇぞ、その調子だと」
 サラリとそんなことを言ってくれる幼馴染みを恨めしげに見ればブレダは言った。
「今度本届けに行くんだろ?そん時言え」
「えっ?でも、心の準備がっ」
「準備すんのにどんだけ時間かかってんだよ。そのうちそのヒューズとか言う奴に持ってかれるぞ」
 そんな恐ろしいことを平気で言ってのけるブレダにオレが情けない顔をすればブレダは肩を竦める。
「本来一緒になれない筈のところを2年続けて同部屋にしたような奴だろ?その気になればあっと言う間だな」
「ブレダ〜〜〜ッ」
「嫌ならとっとと言うこった」
 ブレダはそう言うとちょうどたどり着いた校門をさっさと抜けて行ってしまった。
「ブレダの意地悪ッ」
 立ち止まってそう怒鳴るオレにブレダは振り向かずにひらひらと手を振る。丁度その時学校のチャイムが鳴って、週番が閉じていく門の隙間にオレは慌てて飛び込んだ。

 それから数日は先生と話す機会がなかった。本を持っていく日を決めなきゃと思いつつ、ブレダにあんなこと言われたせいで、その日は先生に告白しなきゃいけないと言う強迫観念がついて回って、なかなか先生に「いつにしましょう」と話を持っていくことも出来なかった。
 何となく進むことも戻ることも出来ないような、そんな気持ちになってオレはいつものように図書館に入り浸る。これで先生がきたら話も進んで助かるのに、なんて他力本願な事を考えながら、開いた本の上に頬をつけて机に懐いていたらコツンと誰かが頭を叩いた。
「本の上で寝るな」
「あ、委員長」
 本の上で右向きに窓を見ていた顔を左向きにして目だけでヘスティングを見上げる。そうすればヘスティングは顔を顰めてオレの髪を引っ張った。
「いててててッッ」
 グイグイと引っ張られてオレは仕方なしに体を起こす。痛みに涙の滲む目でヘスティングを見れば、ヘスティングは手を離して引っ張っていたオレの髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「本は大事にしろよ」
「はあ、すんません」
 オレがそう言えば髪を弄っていた手が降りてきてオレの睫に宿っていた涙を拭っていく。そんなことされた事なくて思わずまじまじとヘスティングを見つめたとき、マスタング先生が図書室の入口に顔を出した。
「ハボック」
「あ、先生」
 さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに先生がきてくれたのが嬉しくて、オレはヘスティングを押し退けるようにして立つと小走りに先生の傍に駆け寄ったのだった。


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