個人授業  第十二章


 本を片手に家に戻ったオレはベッドに仰向けに倒れ込んでため息をつく。先生のことを教えてくれると言ったヒューズの申し出も、恋する相手の心を自分のものにできる恋の呪文の本を持っていけと言ったマオの言葉も、どちらも断ってしまった事をオレは今になって後悔し始めていた。
「カッコつけなきゃよかった」
 ヒューズに先生のことを聞くのはなんだか悔しかった。自分の知らない先生のことをアイツが知ってるのを思い知るのが嫌だったから。せめて先生とどういう関係なのか聞いておくんだったと思いながら手にした本を見る。「錬金術のはじまりの本」と書かれたそれはせいぜい小学生くらいが対象の本で、とても先生との話のネタになるとは思えなかった。
「これ貰ってくるんだったら恋の呪文の本の方がよかったかも」
 勿論そんな呪文が効くわけないとは判っていたけれど。
「あーあ」
 オレは大きなため息をつくと本を枕元に放り投げて熊を抱きしめたのだった。

 その日の夜はなかなか眠れなかった。うとうととまどろんでは目覚めるを繰り返すばかりでいつものような深い眠りが訪れない。オレは何度目かに目覚めたところで眠るのを諦めてベッドから降りる。そうしていつもよりだいぶ時間は早かったけれど日課のジョギングに出かけることにした。灯りもつけずに着替えると物音をたてないように気をつけて家の外へと出る。途端に身を包む冷たい空気に、オレはぶるっと震えて首を竦めた。ストレッチ出よく体をほぐすとオレはゆっくりと歩き出す。白い息が口から零れて蒸気機関車よろしく走るオレの背後へと流れていった。
 ちょうど帰ってくる人と出かけていく人の合間の時間なのだろう。通りは人の気配もなくてガランとしている。オレは誰もいない道をひとり人間蒸気機関車と化して走る。見上げた真っ暗な空には星が瞬いてまるで先生の瞳みたいだ。そう思ったらもの凄く先生に会いたくなって、オレは先生の家目指して駈け出していた。
 ハアハアと息を弾ませて大きな屋敷の前に立つ。黒々とそびえ立つ屋敷は勿論灯りなどついてなくて、先生は眠っているのだろうと思った。
「先生…」
 思わずそう呟いた時。
 ガチャリと家の扉が開いて出てきた人影にオレは目を見開いた。
「マスタング先生…」
 出てきた人影を確かめるようにそう呼べば、その人がギクリと身を強ばらせる。門を挟んで立っているのがオレだと気づくと先生は星空と同じ瞳をまん丸に見開いた。
「ハボック?」
 そう呼んで確かめるように目をパチパチとさせるともう一度オレをじっと見る。そこにいるのが確かにオレだと判ると駆け寄るようにやってきて門を開いた。
「なにやってるんだ、お前。こんな時間に」
 時計の針はまだやっと3時を回った頃だろう。確かに人を訪ねるには不適当な時間だと思いながらオレは答えた。
「眠れないんでジョギングに出て、そしたら先生の家の近くまで来たんで見てました」
 そう答えるオレに先生は眉を顰めた。
「お前、こんな時間にこんなところをうろついてると不審者で通報されるぞ?」
 そう言われてオレは初めてこの辺がいわゆる高級住宅街立ったことを思い出す。
「あー、そんなこと考えてもみなかったっス」
 あははと笑うオレにため息をついた先生は次の瞬間大きなくしゃみをした。見れば先生はパジャマにガウンを羽織っただけの姿だ。
「先生の方こそこんな時間にそんな格好で外出てきてどうしたんスか?」
 そう聞かれて先生は腕を組んだ肩を寒そうに竦めて答えた。
「本を読んでいたら目が冴えてしまってな。星空でも見れば眠くなるかと思って」
 先生はそこまで言ってもう一つくしゃみをする。ゴシゴシと手で腕をさすりながら言った。
「こんなところで立ち話するくらいなら中でコーヒーでも飲んでいかないか?」
「えっ、でもこんな時間っスよ?いいんスか?」
「どうせ起きてるんだ、一向に構わんよ。それに夜は意外と声が響く」
 そう言われてオレは手のひらで口を覆うときょろきょろとあたりを見回す。そんなオレの様子にクスリと笑うと先生はオレを促すようにして家の中へと入っていった。オレは一瞬迷ったけれど、結局先生の後について玄関の扉をくぐる。そうしてオレは思いがけずこんな時間に、先生の家にお邪魔する事になってしまったのだった。

 先生の後について家に入ると廊下を奥へと進んでいく。あの日、本を運んできた時はちゃんと入ったのは書斎だけだったから、オレは物珍しくてきょろきょろと家の中を見回した。そうして先生に続いて入ったリビングのソファーに勧められるまま腰を下ろす。先生は「ちょっと待ってて」と言いおいて出ていくと、少しして良い香りのするコーヒーのカップを手に戻ってきた。
「ほら」
 そう言って差し出されたカップをオレは受け取る。ミルクと砂糖は断って頂きますと口を付けて先生を見れば、先生は砂糖とミルクをドボドボと入れてスプーンで掻き混ぜていた。
「先生、子供みてぇ」
 思わずそう言ってしまったオレを先生は顔を赤らめて睨む。勢いよくガブリと飲み込むとその熱さに目を白黒差せた。
「ククッ」
 ますます子供っぽい仕草にオレが我慢できずに吹き出せば先生はますます顔を赤くする。決まり悪そうにガチャガチャとスプーンでカップを掻き混ぜながら聞いた。
「いつもこんな時間に走っているのか?」
「え?いえ、今日はたまたま。なんかあんまり眠れなかったからもう走ってきちゃえって思って。いつもはもう少し遅いんスけど」
「毎日走ってるのか。感心だな」
 心底感心したように言う先生にオレは思わず顔を赤らめる。まさか先生にそんな風に言って貰えるとは思っていなかったから、なんだか恥ずかしくてこそばゆかった。
「先生はなんの本、読んでたんスか?」
「ん?ああ、この間運んでもらった本があったろう?あれだ。面白くて読み始めると止まらなくて、おかげで最近毎日寝不足だよ」
 そう言って苦笑いする先生にオレはちょっと躊躇ってから言う。
「家の人が心配するんじゃないんスか?あんまり遅くまで起きてると」
 そうすれば先生は一瞬目を見開いてから肩を竦めた。
「この家には私しかいないからね。だからついつい読みふけってしまう」
 先生の言葉にオレは思わず目を見張る。このだだっ広い家に一人で住んでいるんだろうかと訪ねようとする前に先生が言った。
「広い家を借りているのは本を置くスペースが欲しいからだよ」
「え?じゃあ先生、ここに一人で住んでるんスか?」
 そう尋ねれば頷く先生に、オレは思わず「万歳」と言いかけて言葉を必死に飲み込む。自然とニヤケる顔を見れたくなくてカップで顔を隠すようにしてコーヒーをすすると先生に聞いた。
「先生っていつもどんな本読んでるんスか?」
「そうだな、本なら結構何でも読むが…やはり科学関係の本かな」
「専門ですもんね」
 オレがそう言えば先生はくすぐったそうに笑う。視線を宙に向けて思い出すようにしながら言った。
「私が科学に興味を持つようになったのは小さいときに呼んだ本がきっかけでね。引っ越しのさなかになくしてしまったがとても大事にしていたんだ」
「なんて本っスか?」
 子供の頃の先生が読んでいた本なら読んでみたいかも。そう思って訪ねれば先生は懐かしそうに目を細めて答える。
「“錬金術のはじまりの本”と言うんだ。本当に大好きだった。できることならもう一度読んでみたいよ」
 そう言って優しく笑う先生の顔をオレはまじまじと見つめた。
“錬金術のはじまりの本”って、それって。
「先生、オレ、その本持ってる」
「えっ?!」
 オレがそう言えば懐かしむような笑みを浮かべていた先生がオレの顔を見る。綺麗な瞳をまん丸に見開くと先生にしては珍しくせき込むようにして言った。
「も、持ってるって、“錬金術のはじまりの本”を?!」
「あ、うん。この間たまたまーー」
「見せてくれないかッ?!」
 椅子から腰を浮かせてオレの方へ身を乗り出して言う先生にオレは目を丸くする。
「いいっスけど」
「ありがとうっ、ハボック!」
 先生は叫ぶようにそう言って手を伸ばすとオレの両手を握りぶんぶんと振った。
「まさかお前が持ってるとは…!ずっと読み返してみたいと思ってたんだ」
 握った手をぶんぶんと振りながら言う先生をオレは内心びっくりしながら見つめる。
(うそー。ほんとに先生との話のネタになっちゃったよ!)
 オレはこの本を薦めてくれたマオにめちゃくちゃ感謝しながら何度も「ありがとう」と言う先生を見つめていた。


→ 第十三章
第十一章 ←