霧屋2  第三章


「大佐、この書類にサイン……って、なんだか眠そうですね」
 ロイにサインを貰おうと執務室に入ってきたブレダは、半分瞼が落ちた目で見上げてくるロイを見て言う。差し出された書類を受け取りながら大欠伸をして、ロイはペンの尻でボリボリと頭を掻いた。
「夕べ変な時間に食ってしまってね、胃凭れというか何というか」
「へぇ、珍しい」
「食い意地の張った犬がいるもんでな」
「犬、ですか?」
 かったるそうにボソボソと呟かれた言葉がよく聞き取れずブレダは首を傾げる。それでも書類にサインさえ貰えば正直上司の眠気の理由などどうでもよく、ブレダは受け取った書類を手に執務室を出ていった。
「まったくハボックの奴……」
 ロイはその秀麗な顔に似合わぬ大欠伸をしながらこの眠気の原因を作った男を罵る。ついうっかり事に及んでしまったとはいえ自分も同意の上なのだからハボックばかりを責めるのは間違いとも言えるが、自分とは違い元気溌剌演習に臨んでいる姿を見れば文句の一つも言いたくなるというものだった。
「しかも今日はガーランド議員のパーティじゃないか」
 ロイはうんざりとした顔でそう呟く。ガーランドはイーストシティ市議会の古参の議員で、何かと理由を付けてはパーティを開きそのたび自分の年頃の娘をロイに売り込んでくる、ロイが苦手とする人物の一人だった。
「ああもう……面倒くさいしすっぽかしてやろうか……」
「勝手なことを仰られては困ります」
 ロイが机に突っ伏してボソリと呟けば頭上から声が降ってくる。驚いて顔を上げればホークアイの鳶色の瞳がロイを見下ろしていた。
「中尉、いつの間に───ああ、いや、いい天気だな。ついウトウトしてしまったよ」
 思わず言いかけた言葉を飲み込んで体を起こすとロイは、にっこりと笑ってみせる。だが、つきあいの長いホークアイはそんな笑顔には誤魔化されずに言った。
「何度もノックしたのですが返事がありませんでしたので入らせて頂きました。それからガーランド議員には多額の寄付金を頂いてます。大佐の出席はあちらからの強いご希望なのですから、たとえ40度の熱があろうが行って頂きます」
「人身御供か、私は」
「何か仰いましたか?」
 思わず呟いた言葉を聞きとがめられてロイは慌てて首を振る。ホークアイはジロリとロイを見ると抱えていた書類をロイの机に置いた。
「この書類を今日中にお願いします。いい眠気覚ましになると思いますが」
「……中尉」
 げんなりと肩を落とすロイを見て、ホークアイは執務室に入ってから初めての笑みを浮かべる。失礼します、と部屋を出ていく副官の背を見送って、ロイは今頃演習場で汗を流しているであろう男を思いきり罵ったのだった。


「へぇっくしょんッッ!!」
「うわっ、隊長、こっち向いてクシャミしないでくださいよっ」
「きったねぇなぁ……風邪ですか?隊長」
 ズズッと鼻を啜るハボックに部下たちが言う。微妙に距離を取る部下たちの薄情さにハボックは眉を顰めて言った。
「どこかのカワイイ女の子が噂してんだよ」
「“あのヌボーッとデカイ男、いつもマスタング大佐の側にいて邪魔よね!”とか?」
 ニヤニヤと笑って言う部下の頭を抱え込むと、ハボックは頭のてっぺんにゲンコツをグリグリとねじ込む。イテぇと大袈裟に騒ぐ部下とゲラゲラと笑う部下たちをジロリと見渡して、ハボックは言った。
「全員演習場5周追加!」
「「ええーッ?!」」
「隊長、横暴ッ!!」
「もうヘトヘトですよー」
 ハボックの言葉に一斉に不満の声を上げる部下たちにハボックはフンと鼻を鳴らす。
「煩い、文句言う暇があったらさっさと走れ。ほら、行くぞ!」
「まったくもう……今日はやたら元気なんだから」
 先頭を切って走り出すハボックに、ブツブツと言いながらも続いて走り出す部下たちだった。


「ただいま戻りましたぁ」
「おう、お疲れ、ハボ」
「お疲れさまです、少尉」
 ハボックがシャワーで濡れた髪をタオルで拭き拭き司令室に戻ってくれば、ブレダたちが顔を上げて言う。“中?”とハボックが口に出さず執務室の扉を指さして尋ねるとブレダが頷いた。
「ああ。なんか機嫌悪そうだけどな」
「なんで?」
「さあ」
 肩を竦めて答えるブレダにハボックは首を傾げながら執務室の扉へと向かう。軽いノックをするのと同時に扉を開ければ、黒曜石の瞳が書類の山の間からジロリとハボックを睨んだ。
「演習終わったっス……って、すげぇ量っスね」
 ロイの前に積まれた書類を目を丸くして見ながらハボックが言う。ロイは暫くの間無言でハボックを睨んでいたが、書類に視線を戻して言った。
「お前のせいだ」
「へ?オレ?なんで?」
 ボソリと不機嫌に呟かれた言葉にハボックが首を傾げる。だが、ロイはそれには答えずガリガリと書類にサインを書き込んでいった。
「終わるんスか、これ。今日はパーティっしょ?」
「終わらせなきゃ中尉に撃たれる」
 司令部最強の女性の名を聞けばハボックも黙るしかない。ロイはもの凄い勢いでサインを量産しながら言った。
「日中は書類の山で夜は出たくもないパーティだ、最悪だ」
 心底嫌そうに言うロイにハボックは苦笑してロイの黒髪を掻き混ぜる。ジロリと睨んでくる黒曜石を見返してハボックは言った。
「明日は大佐の好物作ってあげますよ。そうだ、レモンケーキもつけますから」
 だから頑張ってと言うハボックにロイはフゥとため息をつく。ロイは掻き混ぜられて乱れた髪を撫でて言った。
「とりあえず夕方まで乗り切るためのコーヒーが欲しい。食い意地のはった犬のおかげで寝不足なんでな」
「あ」
 その言葉に書類の山の理由を察してハボックが眉を下げる。すんませんと頭を掻くハボックをロイは急かした。
「早くしろ、あと一時間半しかない。その後は車回せよ」
「はーい」
「……ハボック」
「イエッサー!」
 ジロリと睨むロイにピシッと敬礼を返してハボックは執務室を出ていく。その背を見送ってロイは欠伸混じりのため息をついた。
「ちょっと顔を出したらさっさと帰ってしまおう。今日は早く寝たい」
 とりあえず顔さえ見せれば問題ないだろう。ガーランドがなんと思おうが、ホークアイが文句を言おうが早く帰って寝るんだ。そんなロイの(ささ)やかな願いは、だがすぐには叶えられなかった。


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