霧屋2  第二章


「やべぇ……十二時過ぎちゃった……」
 必死に走って帰ってきたものの門の前で時間を確かめれば針は無情にも十二時を十数分過ぎている。ウーと唸ったもののハボックは仕方なしに門を押し開き、数メートル先のステップを上がるとポケットから出した鍵で扉を開けた。
「ただいま……」
 蟻が囁くより小さな声でハボックは言うとそっと扉を閉める。足音をたてずに廊下を進み二階への階段に足をかけた時、ガチャリとリビングの扉が開く音と共に背後から声が聞こえた。
「遅いお帰りだな。それともうちの犬は時計も読めないのか?」
 不機嫌そうな声に恐る恐る肩越しに振り向けば、リビングの扉に寄りかかったロイが睨んでいる。ハボックはロイに向き直ると満面の笑みを浮かべて言った。
「いや、ちょっと時計が止まってたみたいで」
「見せてみろ」
「えっ?!」
 言うと同時に近づいてきたロイが伸ばしてきた手を、ハボックは腕を高く上げてよける。腕時計を上げた手を上げたまま硬直するハボックをロイがジロリと睨めば、ハボックは上げた手を下ろして上目遣いにロイを見た。
「遅くなりました、すんません」
「最初から素直に謝ればいいんだ」
 謝罪の言葉を聞いてロイはフンと鼻を鳴らす。そのままクルリと背を向けてリビングに戻るロイについて行きながらハボックは言った。
「謝ったって怒るっしょ?アンタ」
「当たり前だ」
 冷たく言い捨ててソファーに腰を下ろすと本を取り上げるロイを情けなく眉を垂らして見たハボックはキッチンへと足を向ける。ミルクを沸かし手早くココアを作るとリビングに戻った。
「どうぞ」
 そう言いながらハボックはロイの前にココアを載せたトレイを差し出す。見上げてくる黒曜石を黙ったまま見返していたが、ロイがカップに手を伸ばすのを見てホッと息を吐いた。
「遅くなってごめんなさい」
 ロイの隣に腰を下ろし改めてもう一度詫びればロイが横目でチラリとハボックを見る。カップから口を離して尋ねた。
「何か問題が起きたのか?」
「貰った見取り図がちょっと古くて」
 最新の資料との差額は老人がちゃっかりせしめたのだろう。ハボックがそう言えばロイはココアを啜りながら眉を顰めた。
「とんでもないジジィだな。ちょっと髭の先でも燃やしてやるか?」
「たいさ、たいさ」
 半ば本気の呟きにハボックは苦笑する。確かにちょっぴり困ったところもあるが、気のいい老人との間をどうこうする気はハボックにはなかった。なによりハボックの立場をよく知った上で協力してくれる人間は限られている。もっともあの老人の場合、持て余すほどの暇な時間を楽しむ手段として連絡役を買っているともいえたが。
「ちゃんと目的のものは手に入れましたから」
そう言うハボックの自信に満ちた笑顔にロイは僅かに頬を染める。それを隠そうとロイはココアをゴクゴクと飲んだ。


『困ったときには霧屋に頼め』
 暫く前からイーストシティで密かに囁かれていたその言葉をロイが耳にしたのは、ロイ達が集めた情報を元にテロリストのアジトに乗り込んだ事件がきっかけだった。立ち込める深い霧の中、その情報がロイ達をおびき寄せる為の罠だと知って退却しかけたものの、テロリスト達に動きがない事を不審に思ってアジトを調べればそこでは既に身動きできないよう拘束されたテロリスト達が転がっていた。不可解な事件にロイ達が先に起こった様々な事件を洗い直せば、浮かび上がったのが『霧屋』という名前と前述の言葉だったのだ。その後、中央からやってきたヒューズ絡みの事件を解決する間にその『霧屋』と名乗る万屋がハボックだと言うことが判明したのだが、てっきり国家錬金術師だとばかり思ってふたつ名を尋ねたロイにハボックはこう答えたのだった。
『オレの錬金術は民衆の為のもんじゃない、大佐の為のもんスから』
 下手に国家錬金術師になってロイの元から離されたのでは意味がない、だから国家錬金術師の資格などいらないのだとハボックは言い切った。結果、ハボックが錬金術を使えると言う事実は軍のごく一部の者だけが把握し、強大な力を持つ錬金術師を野放しにするのを恐れた軍がヒューズを監視役につけるという事態になったという訳だった。
 直属の上司である自分が知らされていなかった事にロイは多少の不満を持ったものの、最終的にはハボックの意志を受け入れそうして現在に至っている。ハボックは表向きは軍での任務を果たしながらも、以前住んでいたアパートで親しくしていた老人を連絡役に、相変わらず『霧屋』としての仕事を続けているのであった。


「なんか食いません?」
 ゴクゴクとココアを飲み干したロイに向かってハボックが言う。ロイは空になったカップをテーブルに置いて言った。
「こんな時間にメシを食ったら太るだろうが」
「まぁたダイエット中の女の子みたいな事を」
 ハボックは呆れたように言って立ち上がる。キッチンに入り冷蔵庫を覗き込みながら言った。
「ひと仕事してきたら腹減っちゃって……あ、ハムがある」
 冷蔵庫を漁ってハボックはハムの塊を取り出す。ハムステーキでも焼こうとフライパンを取り出すハボックを見て、今度はロイが呆れたような声を上げた。
「よく今からそんなものを食う気になるな。言っておくが私はいらんぞ。付き合ってられんから先に寝る」
「えっ?待っててくれないんスかっ?」
「今何時だと思ってるんだ。用もないのに起きてられるか、おやすみ」
 そう言ってさっさと二階に上がってしまおうとするロイを、ハボックは慌ててハムを冷蔵庫に放り込んで追いかける。階段を上がる手前で追いついて腕を掴めばロイが言った。
「ハムステーキを食うんだろう?別に止めんぞ」
「一人で食うのは淋しいっス」
 アンタがいるのに、と言うハボックにロイは首を傾げる。
「だが、私は食いたくないし、お前は腹が減ってるんだろう?」
 そう言われてハボックは少し考える。それからいい事を思いついたとばかりに笑みを浮かべて言った。
「だったらこうしましょ」
「どうするんだ?」
 キョトンとするロイの耳元にハボックは唇を寄せる。
「アンタを食わせて……?」
 低く囁く声に目を丸くしたロイは、バッとハボックから身を離した。だが、ロイが逃げるより早くハボックがその腕を掴む。腕の長さの分だけ必死に身を離してロイは言った。
「馬鹿なこと言ってないでさっさとハムステーキでも何でも食ってこいッ!」
「大佐」
 囁かれた耳元を手のひらで押さえて怒鳴るロイの目尻はほんのりと紅く染まっている。ハボックは目を細めると伸ばされた腕を手繰り寄せて言った。
「ハムステーキは食えなくてもオレなら食えるっしょ?」
「ハボック!」
「互いに食い合いっこしましょ?」
 ね、と言ってハボックはロイの耳朶を軽く噛む。ぞくんと身を震わせたロイは悔しそうに息を吐き出して言った。
「胃凭れさせたら赦さんからな」
「大丈夫、ちゃんと完食して満足させますから」
「まったく……食い意地の張った犬だな」
「でも好きっしょ?」
 自信満々に言い放つ空色を睨んで、ロイは自分から口づけていった。


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