霧屋2  第一章


「ここか」
 ハボックはそう呟いて目の前のビルを見上げる。腰につけたポーチの中からシガレットケースを取り出すと蓋を開いた。ケースの中には普段ハボックが吸っているのとは違う紙巻き煙草が並んでいる。なにより違うのは煙草の一本一本に錬成陣が描かれている事だった。
「さて、始めますか」
 ハボックは錬成陣の描かれた煙草を一本取り出し口に咥えるとケースをポーチに戻す。ポケットから取り出したライターで火をつけたハボックは咥えた煙草から細い煙が立ち上るのをじっと見つめた。立ち上った煙は空気に溶けて拡散するかと思いきやその白い姿を保ったまま周囲へとゆっくり広がっていく。よく見ればそれは白い煙ではなく微少な霧の粒子だった。
 煙草一本吸い終わる頃には辺りは一面の霧の中に沈み、先ほどまでは月明かりの中そびえ立っているのが見えていたビルもすぐ側の壁を除けばどこまで建物があるのか全く判らなくなっている。ハボックは短くなった煙草を行儀よく携帯灰皿へ放り込むと、新しい煙草に火を点けいつものように唇の端に咥えた。
「ちゃっちゃと済ませて帰ろう」
(そうしないと大佐煩いし)
 後半は胸の中で呟いてハボックはビルの壁に設えられた扉に近づく。懐から取り出したピンで鍵穴を二、三度弄ればカチッと微かな音がして鍵が開いた。
「…………」
 鍵の開いた扉をそっと押しあけ出来た隙間からハボックは体を滑り込ませる。神経を研ぎ澄まして空色の瞳で白く揺蕩う霧をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと歩き始めた。
(二つ先の扉の中に二人、その先に廊下に一人……一階はそれだけか?)
 ハボックはここへ来る前に頭の中に叩き込んでおいたビル内の見取り図の中に、突然の霧で困惑しているであろう男たちの位置を書き込んでいく。ビルをその白い懐に深く静かに抱え込んだ霧は、その中で動く男たちの居場所をセンサーのように捉えてハボックに伝えていた。
 ハボックは霧が伝える情報を正確に読みとりながらビルの中を進んでいく。時には扉の陰や誰もいない部屋の中に身を潜ませて、ハボックは目的のものを求めて上へ上へと上がっていった。
(ええと……爺さんの情報だとこの階の一番奥の部屋だったな)
 人目を避けながら五階まで上ってきたハボックは左右に伸びる廊下を見渡す。記憶通り右の廊下を進んだハボックは突如目の前に現れた大きな扉に目を丸くした。
「……んだよ、これ」
 思わず声にして呟くとハボックは忌々しげに扉を見上げる。渡された見取り図にはこんな扉は描かれておらず、どうやらハボックが渡された資料は若干古かったようだった。
「ケチったな、爺さん……」
 脳裏に浮かんだのほほんとした老人の顔にハボックは内心悪態をつくと扉に取り付けられた鍵を調べる。ビルに入るときにピンでこじ開けた鍵とは比べものにならないくらい複雑な鍵だと判ると、ハボックは眉を顰めた。
「どうすっかな……」
 目的のものは恐らくこの扉の向こうだろう。ほんの数瞬迷ったハボックは、咥えていた煙草を手に持つと霧の中に煙草の先に小さく灯る火で素早く錬成陣を描いた。
「……ハッ!」
 小さな呼気と共に錬成陣の真下に手を突いて陣を発動させる。そうすればゆらゆらと揺蕩っていた霧が目映い光と共に薄い水の刃へと姿を変え、扉の鍵を切り裂いた。
「Open Sesame……ってね」
 小さく呟いてハボックは鍵を壊した扉をそっと押し開く。次の瞬間シュッと霧の中から突き出てきたナイフを軽いステップでかわした。
「何者だッ!!」
 こうも簡単に鍵を壊して入ってこられる事など想像もしていなかったのだろう。部屋の中では気味の悪い霧に既にパニックに陥っていたらしい男が二人、手にした銃やナイフをハボックに向けていた。
「霧屋でぇす」
 ハボックはおどけた調子で答えながらさっきとは違う錬成陣を宙に描く。ニッとハボックが物騒な笑みを浮かべるのと同時に男たちの顔を取り巻く霧の粒子が濃度を増し、男たちはまるで水中にいるようにガボガボと空気の泡を霧の中に吐き出してもがいた。喉を掻き毟った男たちが溺れる寸前、パチンとハボックが指を鳴らせば男たちの顔を包んでた霧がサアッと風に流れるように吹き消される。気を失って倒れた男たちを見下ろして笑みを浮かべたハボックは、ゆっくりと壁に並んだ戸棚へと足を向けた。
「大人しく寝てな」
 ハボックは言いながら戸棚に置かれた置物を無造作に掴むとグイと捻る。そうすれば戸棚のすぐ横の壁に浮かび上がった切れ目が開いて小さなスペースが現れた。
「こいつか」
 ハボックはその中にしまわれていたメモリーカードを取り上げる。それを懐にしまうと床に倒れた男たちを跨いで壊した扉から部屋の外へと出た。廊下に面した窓を開ければビルの中と外を取り巻く霧が混じりあって渦を作る。ハボックは腰のベルトから細いワイヤーを引っ張りだして端のフックを窓枠に引っかけるとパッと身を投げ出した。
「おいっ?なにがあったッ?!」
 霧の中、階下にいた男たちが漸く異変に気づいたときには、ハボックの姿はとっくに見えなくなった後だった。


「爺さんッ、見取り図買うのに金ケチったろ!」
 ハボックはバンッと扉を開けるなり中に向かってそう声を上げる。古いアパートの扉が乱暴な扱いに不平の声を上げるのを聞いて、揺り椅子に座った老人が眉を顰めた。
「もっと優しく扱わんか。壊れたらどうしてくれる」
「煩い」
 ハボックは言って老人が座る椅子の背をグイと掴む。ゆらゆらと揺らしていた椅子を乱暴に止められて老人は不満げにハボックを見上げた。
「図面にない扉があった」
「扉の一つや二つ、霧屋にゃなんでもなかろう」
「あのなぁ」
 確かにあれくらいの扉に立ち往生するような腕ではないつもりだ。だが、仕事をする上でする必要のない危険を冒すつもりはなく、任せている上は正確な情報を集めろというのがハボックの言い分だった。
「あのな、爺さん」
「こんなところで油売っとっていいのか?さっさと帰らんで誰かさんの機嫌損ねてもしらんぞ」
「あ」
 思わず文句を言おうとすれば出鼻を挫くように発せられた言葉にハボックは慌てて腕時計を見る。その針が日付を跨ごうとしているのを見て、慌ててクローゼットに駆け寄った。
「やべぇ、今日中に帰ってこいって言われてんのにッ!」
 ハボックは黒い潜入服を脱ぎ捨てシャツとジーンズに着替えながら言う。クローゼットの中に潜入服を放り込んでジャンパーを引っ掴むとのんびりと揺り椅子を揺する老人を振り返った。
「とにかく!次からはちゃんと最新のもん用意してくれよな!」
「えー」
「“えー”じゃねぇッ、クソジジイ!」
 唇を尖らせて抗議の声を上げる老人を睨んでハボックは怒鳴る。だが、老人はそんなハボックの罵声などどこ吹く風で言った。
「早く帰らんと嫌われるぞー」
「やかましいッ!」
 痛いところを突かれてハボックは垂れた目を吊り上げる。老人に向かってピッとメモリーカードを投げて言った。
「それ!依頼のブツ!届けといて!」
「おう、ご苦労だったな」
 カードを受け止めて老人はニヤリと笑う。
「次の依頼が来たらまた連絡する」
「ああ!じゃあなッ!」
 ハボックは片手を上げて答えると来たときと同じく乱暴に扉を開いてアパートを飛び出して行った。


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