霧屋2  第二十二章


「大佐、ちょっと出てくるんであと十五分したら鍋の火、止めてくれません?……大佐?」
 キッチンから出てきたハボックは濡れた手を拭きながら本を読むロイに声をかける。だが、ソファーに長々と寝そべるロイからは返事が返ってこず、ハボックは眉を寄せてロイに近づいた。
「たーいーさー」
「うわっ!なんだ、びっくりさせるな」
 ヌッと顔を突き出されてロイが驚いて本から顔を上げる。ハボックはムッと顎を突き出して言った。
「びっくりもなにもねぇっしょ?さっきから声かけてんのに」
 不機嫌に言われてロイは決まり悪そうに視線を逸らす。本に夢中になれば周囲が目に入らなくなるのはいつもの事で、流石に自分自身自覚がある身としては言い返す言葉がなかった。
「まぁいいや、いつもの事だし」
 ハボックが肩を竦めて言うのにちょっとムッとしたものの、何も言わずに見上げればハボックが続けた。
「オリーブオイル、切らしてたんスよ。ちょっと買ってきたいんスけど、鍋、あと十五分煮込んだら出来るんで、火を消して貰えます?」
 消すだけでいいから、と言うハボックにロイは眉を寄せる。
「構わんが本を読んでたら忘れそうだ」
「十五分くらい待ってくれてもいいじゃねぇっスか」
「今面白いところなんだ」
 本のこととなると譲る気のないロイがそう答えればハボックがやれやれとため息をつく。
「じゃあ、タイマーセットしていくっスから。幾ら何でもタイマーの音くらい聞こえるっしょ?」
「当たり前だ。お前、私を馬鹿にしているのか?」
「してないっス。じゃあ、タイマーつけときますから、鍋頼みますね」
 ハボックはそう言うと十五分後にセットしたタイマーをソファーの前のテーブルに置く。じゃあ、と出ていく背を見送ってロイは再びソファーに寝そべると本を読み始めた。文字を目で追えばあっと言う間に本の世界に没頭してしまう。頭の中で繰り広げられるそれに夢中になっていたロイは、どこからか聞こえてきたアラーム音に僅かに眉を寄せた。
「煩いな」
 ボソリとそう呟いてハボックは何をやっているんだと思う。ロイの注意を本から引き剥がそうとする音に抵抗して、文字を追い続ければやがて頭の片隅で鳴っていた音は諦めたように鳴るのをやめた。やれやれといつの間にか入っていた体の力を抜いて、ロイは本を読み進める。暫くして山場を越えたところまで来ると、ロイはホッと息を吐き出して本から顔を上げた。
「喉が乾いたな……ハボック!コーヒー!」
 ロイはソファーに座ったままキッチンにいる相手に聞こえるよう声を張り上げる。だが、返事がないことを訝しんだロイは立ち上がろうとしてテーブルに置かれたタイマーに気づいた。
「ええと」
 何か大切な事を忘れている気がしてロイは首を捻る。
「タイマー……なんでこんなところに」
 そう呟きながらタイマーを手に取ったロイの頭にハボックの声が浮かんだ。
『じゃあ、タイマーつけときますから、鍋頼みますね』
「鍋!!」
 ロイは大声で怒鳴ってソファーから飛び上がる。手にしたタイマーを放り投げキッチンへと駆け込めばコンロにかけられた鍋から濛々と煙が上がっていた。
「しまったッッ!!」
 ロイは慌てて鍋に手を伸ばして蓋を掴む。
「アチィッッ!!」
 熱くて投げ捨てるように離した手から飛んだ蓋が、耳障りな音を立てて床を転がった。
「どう……っ、どうし───」
「なにやってるんスかっ、アンタッ!!」
 その時背後から聞こえた声にロイが振り向けば、紙袋を抱えたハボックがキッチンの入口に立っていた。
「どいてっ!」
 ハボックはロイを突き飛ばすようにコンロに寄ると、まず火を消す。手にした袋をカウンターに置いて壁にかけてあった鍋掴みを両手に填め、煙を上げる鍋をシンクに入れたハボックは、蛇口を捻って鍋に水を入れた。鍋に入った水は熱い鍋に熱せられてジュウウと湯気を上げる。瞬く間に煙と湯気で視界が悪くなったキッチンの換気扇をつければ、やがて煙と湯気が外へと吐き出されて、ハボックはハアとため息をついた。
「───大佐」
 ハボックは目をまん丸にして立ち尽くしているロイを振り向く。ピクリと震えて見上げてくる黒曜石に、ハボックは大きなため息をつくとロイを押し退けるようにしてキッチンから出た。
「すっ、すまんっ、ハボック!タイマーが鳴ってた事は鳴ってたんだが、その……なんのタイマーだったか忘れてて……」
 ドサリとソファーに座り込むハボックに、言い訳の言葉もなくてモゴモゴと黙り込むロイをハボックは見上げる。じっと見上げてくる空色の視線に耐えかねてロイが必死に言葉を探していると、ハボックが言った。
「本読んでるアンタに頼んだオレが馬鹿でした。火事にならなかっただけよかったっス」
「……すまん」
 ショボンと項垂れるロイを見ていたハボックはクスリと小さく笑う。ロイの手を引いて自分の隣に座らせると黒髪を優しく撫でて言った。
「で、今日の晩飯はパァっス。あと、オレのお気に入りの鍋も」
「う」
 ニヤニヤと笑って顔を覗き込んでくるハボックにロイは呻く。
「お前、この間からリブステーキが食いたいと言ってたろう。今夜はトニーローマに行こう。で、店に行く前に鍋も買ってやる」
「やった!鍋と一緒にフライパンも見ていいっスか?」
「……好きにしろ」
 ムゥと唇を突き出しながらも駄目と言うわけにいかず、結局その夜ロイは鍋やらフライパンやら調理器具をごっそり買わされたのだった。


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