霧屋  第三章


 そっと玄関の扉を開けて中に入ったハボックはリビングのソファーにロイが座っているのを見ると目を丸くする。ハボックが口を開くより先にロイは読んでいた本から視線を上げると言った。
「遅いッ」
 そう言われて壁の時計をチラリと見れば、針はとっくに12時を回っている。黒い瞳に不機嫌な光を湛えてねめつけて来るロイにハボックは苦笑して近づくと言った。
「すんません、もっと早く帰ろうと思ったんスけど」
 ハボックはそう言うとソファーの背に手を載せてロイの顔を覗き込む。にっこりと優しく笑うと言った。
「ごめんなさい、大佐。その代わりと言っちゃなんスけど、お土産持ってきたっスから」
 そう言って手をポケットに突っ込むと中から包みを取り出す。はい、と差し出せばまだ不服そうな顔をしたままロイはその包みを受け取った。小さな包みを解けば中から出てきたのは可愛らしいウィスキーボンボンだった。
「アンタ、好きでしょう、それ」
 セントラルの有名菓子店でしか売っていないそれはロイのお気に入りで、出張のたび山ほど買い込んでくるほどの熱の入れようだ。ロイは大好きな菓子に弛みかけた頬を引き締めるとハボックを睨み上げた。
「こっ、こんなもんで懐柔されないからなっ」
「喉渇いたでしょ?今ハーブティ淹れるっスから」
 ハボックは笑って答えるとキッチンへと入っていく。暫くしていい香りのするカップを持って出てくるとロイの前に置いた。
「どうぞ」
 言われてロイは必死に不貞腐れた表情を保ったままカップに手を伸ばす。だが、柔らかな香りが鼻腔をくすぐった途端、それ以上機嫌の悪いフリなど出来ずに小さくため息をつくとハボックを見た。ハボックはその視線に了承の印をみてとるとソファーに並んで腰掛ける。脚の上に腕をつくと前屈みにロイの顔を覗くようにして言った。
「ホントにすんませんでした。色々やってたら思ったより時間かかっちゃって」
「もういい。爺さんは満足してくれたんだろう?」
「ええ、助かったって、喜んでくれたっス」
「ならいい」
 ロイはそう言うとカップに口をつける。ハボックに凭れかかればその力強い腕がロイの体を胸に抱きこんだ。
「お前、水の匂いがする」
 抱き込む胸から香る清涼な水の匂いにロイはそう呟く。ハボックはキョトンとすると自分のシャツの匂いを嗅ぎながら言った。
「えっ、そうっスか?…そうかなぁ」
 クンクンと犬のように鼻を蠢かす様にロイはくすりと笑う。
「別に悪い匂いじゃないから気にするな」
「…大佐がそう言うならいいっスけど」
 ハボックは答えてロイの髪に顔を埋めると言った。
「アンタは甘い匂いがするっス」
「そうか?」
「チョコの匂いっスかね」
「まだ食べてないぞ」
 そう言って見上げてくる黒い瞳にハボックはうっそりと笑う。手を伸ばして包みの中から一粒ボンボンを取り出した。
「食べさせてあげます」
 言うと摘んだボンボンを自分の口に放り込む。カリッと噛めば外側のチョコが破れて口中にアルコールが広がりだした。ハボックはロイの顎を掬うとそのまま唇を重ねる。そうして口の中で割ったボンボンをロイの口中へと舌先で押し込んだ。
「んぅ…ンッ…」
 僅かに眉を寄せてロイは押し込まれたボンボンを味わう。一緒に入り込んだ舌がロイの口中を弄り、二人はロイの舌の上で甘いボンボンを味わった。
「…どっスか?旨かった?」
 僅かに唇を離してハボックが聞けば。
「よく判らないな…」
 そう答えるロイに。
「じゃあ、もう一個…」
 ハボックはそう言ってボンボンを含んだ唇を合わせたのだった。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 司令室の扉を開けて中へと入っていけば次々と挨拶の声がかかる。それに頷いてロイは部屋を抜けると執務室に続く扉をあけた。一緒にやってきたハボックが大部屋の自席につくのを目の端に捕らえながら机に向かうロイの後からホークアイが執務室に入ってくると後ろ手に扉を閉める。ハボックの金髪がチラリと見えたのを最後に扉が閉まれば大部屋の騒めきは遮られ、執務室は静けさに包まれた。
「大佐。ご報告が」
 ホークアイは言って手にしたファイルを広げる。その報告を聞くうち、ロイの眉間には皺が刻まれていったのだった。

「麻薬の売人が捕まったそうだ」
 コーヒーを差し出すハボックにロイが言う。ハボックはピコリと咥えた煙草を動かすと答えた。
「へぇ、そりゃよかったっスね」
「なんでも昨日の夜のうちに司令部の前に縛り上げた上で届けられていたそうだよ」
 わざわざそんな事を言い出すロイに何が言いたいんだとハボックが視線で尋ねればロイは机に肘をついた手を顎に当てて答える。
「ソイツの根城を調べたところキメラの死体が出てきた」
「キメラ?ソイツ、錬金術師だったんスか?」
「いや、番犬代わりにどこかから買い入れて飼ってたらしい」
「でも番犬の役にはたたなかったわけっスね。ソイツ掴まっちゃったんスから」
 大したキメラじゃなかったんスね、と言うハボックをロイはじっと見つめる。まっすぐに見つめ返してくる空色の瞳を見据えて言った。
「そのキメラは溺れていたそうだよ。地上でね」
 ロイの言葉にハボックは驚いたように目を見開く。首を傾げてロイに尋ねた。
「地上で溺れてた?どういうことっス?」
「さあな。私が聞きたいくらいだ」
 ロイはそう言うとギシリと椅子の背に体を預ける。
「同じビルに住んでいる連中に当時の様子を聞いたんだが濃い霧が立ち込めていたらしい。あの界隈だけな」
「へえ、何か関係があるんスかね」
 不思議そうに言うハボックを見上げながらロイは聞いた。
「お前、何か変わったものとか見なかったか?爺さんのアパートは現場の近くのはずなんだが」
「現場ってどこっスか?」
「西地区だ」
 言われてハボックは腕組みして考える。だが首を振るとロイに言った。
「いや、特に変わったものを見た覚えも聞いた覚えもないっス。それに爺さんのアパートのあたりじゃ霧なんて発生してなかったっスよ?」
「そうか…」
 ハボックの言葉を聞いてロイは残念そうにため息をつく。
「お前があっちの方へ行っていたから何か気付いていればと思ったんだ。服が湿っぽかったようだがアパートの方じゃ霧は出ていなかったのか」
「オレの服、湿っぽかったっスか?」
「水の匂いがすると言ったろう?前にテロリストどもとやりあった時に立ち込めてた霧と同じ匂いだった」
 そう言われてハボックは口を噤んでロイを見た。肩を竦めると言う。
「霧に匂いなんてあるんスか?オレにはわかんないっスけど。どっちにしろオレは何も見てないし、その件に関しては役に立てそうにないっス」
 ハボックはそう言うと演習があるからと言って執務室を出て行く。その背を見送りながらロイは考え込むように眉を顰めたのだった。


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