見毛相犬2  第三十二章


「よいしょっと」
 ハボックは何とか体を引き上げるとフゥと息を吐く。崖の下から伸びてきた手を掴んでグイと引けば、ロイの細い体が一気に崖の上に上がってきた。
「……どうも」
「どういたしまして」
 何となく不服そうに礼を言うロイに、ハボックはにっこりと笑って答える。やっとのこと上りきって、互いにホッと息を吐いた時、バンッと車の扉が閉まる音がした。その音に目をやればラズナーがカーブのすぐ先に停めた車の側に立っている。降りしきる雨に瞬く間に軍服を濡らしてこちらを見つめてくるラズナーを、二人はじっと見つめた。
「ラズナー少佐」
 呟くようにハボックがラズナーを呼ぶ。そうすればラズナーはニヤリと笑って言った。
「相変わらずしぶといな、ハボック。あの時もそうだった」
「しぶといっていうより運が良かっただけっス」
「運がいい、ね」
 ハボックの答えにラズナーは低く笑う。
「あの時、ここいらは敵で埋め尽くされていた。そんな中、足手纏いの民間人を連れて逃げ延びたのが“運がいい”?」
 ラズナーはそう言うとハボックを睨んだ。
「はっきり言ったらどうだ?自分の方が軍人として才があるから、あの場から民間人を連れて逃げるなど造作なかったとな」
「オレはそんなことこれっぽっちも思っちゃいな────」
「黙れッ!!」
 雨の音を裂くようにラズナーの声が響く。ラズナーはハボックを睨みつけたままゆっくりと近づいてきた。
「いつだってそうだった。お前は何時だって私を見下してきたんだ。あの場から一人逃げた私を」
「違うっス!」
 ラズナーの言葉をハボックは即座に否定する。そうすればラズナーは昏い瞳でハボックをじっと見つめて言った。
「そうだな、違うな。お前は最初から私など鼻にもかけちゃいなかった。いつだって私をバカにして────」
「違いますッ!そりゃオレの態度は褒められたもんじゃなかったけど、それはバカにしてた訳じゃないっス!」
 必死に言い募るハボックの言葉を聞いているのか、ラズナーはクスクスと笑う。ゆっくりとゆっくりと歩いて、ハボックとロイが立つすぐ側まで来ると足を止めた。
「まあいい、昔のことはもう」
 ラズナーは低く言って一方的に話を打ち切る。サッと振った手に一振りのナイフが握られているのを見て、ハボックは顔を歪めた。
「ラズナー少佐」
「構えろ、ハボック。もう後に引けないことは判っているだろう?」
「ラズナー少佐、やめるんだ。こんな事をしてなんになるッ?今ならまだ────」
「黙っていて貰おう、マスタング少佐」
 ハボックの前に出るようにして言うロイの言葉をラズナーはピシャリと遮る。見開く黒曜石を見て、ラズナーは言った。
「これは私とハボックの問題だ。他の誰も口出しすることは出来ん」
「ラズナー少佐っ」
 その瞳に昏い焔を宿すラズナーを何とか説得したいとロイは考えを巡らす。だが、なにか策を考えつく前に、ハボックの手がロイの肩を掴んだ。
「下がっててください、少佐」
「大佐っ」
「大丈夫っス」
 見上げてくるロイにハボックは笑って頷く。重く濡れそぼった上着を脱ぎ捨て、腰のベルトからナイフを引き抜いた。
「ラズナー少佐。オレが勝ったらちゃんと出るべきところに出て罪を償って貰うっスから」
 そう言うハボックの言葉にラズナーは答えず低く笑う。ロイがゆっくりと脇にどけば二人はナイフを手に向かい合った。
「ハボック」
 ハボックを前にしてラズナーが嬉しそうに笑う。次の瞬間、バッと踏み出した二人の間でナイフがキンッと高い金属音を立てた。最初の一撃を互いに受け止めあって、ハボックとラズナーは弾けるように離れる。雨の中を互いの隙を伺って、向き合ったまま走った。踏み出した足を軸にラズナーがいきなり方向転換をするとハボックに向かってナイフを薙ぐ。その切っ先をギリギリのところでかわして、ハボックはラズナーの背後に回った。ナイフを持った腕をラズナーの首に回して締め付ける。ラズナーは手にしたナイフをクルリと回して逆手に持ち変えると、己の脇腹を掠めるようにして背後のハボックに向かってナイフを突き出した。
「くッ」
 ハボックは(すんで)の所でラズナーを突き飛ばすように離す。ドンッと前に突き出され、たたらを踏むように数歩前に出たラズナーはすぐさまハボックへ向き直った。ジリジリとタイミングを伺って二人は円を描くようにして歩く。ハボックが崖に背を向けた時、タンッと地面を蹴ったラズナーはナイフを胸元に握り締めるようにして飛びかかった。体重に加速を加えて突き出されるナイフをハボックはよけきれず、その切っ先がハボックの腕を掠める。雨の中、紅い滴が舞ってロイは思わず声を上げた。
「大佐ッ」
 走り出しそうになる足をグッとこらえてロイはその場に踏みとどまる。ギュッと手を握り締めるロイの視線の先で、ハボックは突き出されたナイフに構わずラズナーへと踏み出した。ナイフの柄をラズナーの腕に叩きつける。ラズナーの手が弛んだのを見逃さず、ハボックはナイフを持つラズナーの手を蹴り上げた。
「ッ!!」
 ラズナーの手から飛んだナイフが雨の中を舞う。カンッと音を立てて転がったナイフを見向きもせず、ラズナーとハボックは睨み合った。
「少佐、オレの勝ちっス。降参してください」
 ハボックが低い声で言う。それを聞いたラズナーは暫くの間身動きせずにハボックを見つめていたが、やがて構えを解いて背筋を伸ばした。
「ラズナー少佐」
 それに幾分ホッとして言ったハボックの目に、銃を握るラズナーの姿が映し出された。


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