見毛相犬2  第十六章


 順調に壁を上っていたロイは、ラズナーよりほんの少し早いタイミングで壁が手前にせり出してきている部分に到達する。頼りとするホールドは形が歪なものや小さいものが多くなり、ロイは何度も足を踏み変えたりホールドを掴みなおしたりしなければならなかった。
(性格の悪い壁だな。設置した奴そっくりだ)
 素直には上がらせてくれないホールドの設置場所に多少苛つきながら、ロイは内心悪態をつく。次のホールドを掴むためには必ず体の反動を利用するしかなく、これほどまでにラズナーと己とに体格の差があるのかと、ロイは面白くないことこの上なかった。
(絶対勝つ!)
 改めて心に誓って、ロイは次のホールドに手を伸ばした。普通に手を伸ばしても十中八九届かないのは判っているから端(はな)から反動を利用する。だが、今度のホールドはそうやっても指先が掠るだけで掴むことが出来なかった。
(届かない……っ)
 上のホールドを掴まなければ上ることは出来ない。とはいえ違うルートを辿るためには下にしろ横にしろかなり動かなくてはならず、殆どラズナーとの差がない以上、そうすることは負けを意味していた。
(くそっ、冗談じゃないぞっ)
 例え負けたとしてもここはラズナーの土俵であり、負けることでのデメリットがあるわけでもない。だが、こんな些細なことでも負けることはロイのプライドが赦さなかった。
(しかもハボック大佐の目の前で)
 自分が負けたらハボックは何と言うだろう。おそらく素っ惚けた表情で『残念でしたねぇ、少佐』とかなんとか言うに違いない。ラズナーに負けることよりも壁の真ん中で無様に張り付いて動けなくなるよりも、にっこり笑ったハボックにそう言われる方が屈辱だ。
(そんな事は絶対に言わせん)
 ロイは内心そう呟いて頭上のホールドを睨み上げた。


(奴ならあのルートをマスタングに勧めるのは判っていたからな)
 ほんの少しだけ上にいるロイの伸ばした手がホールドに僅かなところで届かないのを見て、ラズナーはニヤリと笑う。
(背が高くリーチもある奴ならなんて事はない距離だが、マスタングではギリギリ届かないだろう)
 ホールドを設置したのは自分で、ロイがおそらくはあそこで手間取るのも判っていた。だから多少ロイの方が早く上っていったところで、ラズナーは焦ることもなくのんびりと構えていられたのだった。
(フン、そこでルートを探して無様にうろうろすればいい)
 その間に自分はスイスイと壁を上ってこんなくだらない競争は終わりにしてやる。ラズナーはそう思いながら次のホールドに手を伸ばした。


「ありゃ、やっぱ届かないか」
 壁を見上げていたハボックは、ロイが伸ばした手がギリギリのところでホールドに届かないのを見て呟く。壁を蹴る足をなるべく高い位置に引き上げて、ロイがなんとかホールドを掴めないか試しているのを眺めたハボックは視線をラズナーへと移した。
「あと一回かな」
 それで届かなければラズナーがロイをかわして先へ進むだろう。そうなればロイの技術とリーチではもう負けは決定だった。
「絶対負けないとか思ってんだろうなぁ」
 壁に張り付いたロイの表情はここからではよく判らない。それでもロイの性格を考えれば表情を見ずとも今のロイの気持ちは簡単に想像がついて、ハボックはクスリと笑った。
「負けたらなんて言うべきかな……。やっぱ“残念でしたねぇ”とかが無難?」
 火に油を注いでついうっかり燃やされてしまわないよう、ハボックは珍しく先のことを考えながらプカリと煙を吐き出した。


(ここまで足を上げても届かないのか)
 思い切り反動をつけてもう一度伸ばした指先はホールドに触れるもののしっかりと掴めない。ロイはフーッと大きく息を吐き出すと目を閉じた。
(何か言ってた筈だ。思い出せ、ロイ)
 ロイが準備運動をするのをまったりと眺めながらハボックが参考にと喋っていたその中に、今ここで役立つことがあった筈とロイは思考を遡る。そうすれば。
『遠いホルダー掴むときは見ないで手を伸ばした方が届くっスから』
 ハボックの言葉が不意に脳裏に蘇って、ロイはパッと目を開いた。そのまま余計な事は考えず、先ほどと同じく反動をつけて手を伸ばす。ただ今度は手を伸ばす瞬間、ロイは顔を上には向けず、辿ってきた道を見下ろすように斜め下に向けた。すると。
(届いたっ)
 さっきまで掠るだけだった指先がしっかりとホールドを掴む。ロイは掴んだ瞬間顔を上に向けると、体を引き上げながら瞬時にルートを判断して次のホールドへと手を伸ばした。
(よし、いける!)
 目指すゴールの青いホールドはもうすぐそこだ。ロイはゴール目指してもの凄い勢いで壁を上っていった。


(チッ、気づいたか)
 ボルダリングの経験が殆どないのであれば気づかないだろうと思っていた方法で難所をクリアしたロイを見て、ラズナーは舌打ちする。そのままの勢いでゴールを目指すロイのスピードにラズナーは目を吊り上げた。
(くそっ、負けてたまるか!)
 完全に己の土俵であるこの訓練、しかも新兵が見上げるこの現況で絶対に負けるわけにはいかない。ラズナーはほぼ同じ高さを上るロイを視界の端に捉えながらゴールの赤いホールドへと一気に上っていった。


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