見毛相犬  第九章


「滑るんで気をつけてくださいね」
 カンカンカンと音を立ててハボックはアパートの階段を登っていく。所々の錆の浮かぶ汚い階段を後からついて登りながらロイは眉を顰めた。
「ここっス」
 ハボックはそう言ってたどり着いた三階の突き当たりの扉に鍵を差し込む。ギギッと軋んで開いた扉の中へロイを案内した。
「散らかってるっスけど」
 短い廊下を抜けて扉をひとつ開けたリビングの灯りをつけてハボックが言う。ソファーの上に載っていた本を隅に押しやってロイに座るよう勧めた。
「すぐ用意しますから。あ、なんか飲みます?」
「いや、いい」
 ロイは首を振ると勧められるままにソファーに腰を下ろす。さほど広くはないリビングをグルリと見回して言った。
「おい、なんでこんなところに住んでるんだ?左官ならちゃんとした家を割り当てられているだろう?」
 自分ですらやたらとだだっ広い家に住んでいるのだ。いくら独り身とはいえ、このアパートは大佐であるハボックが住むには貧小だった。
「だって広い家なんて必要ないし、オレにはこれで十分っスもん」
 キッチンの方から声だけが返ってくる。確かに独身の男が寝て食べて暮らす分には困らないだけのスペースはあった。
「それにオレ、そんなに物も持ってないっスしね」
 そう言う言葉にリビングの中を見回してみればリビングの中にはソファーセットの他食事をとるためのテーブルと椅子、小さな棚とラジオくらいしか置いてなかった。ただ、壁にはたくさんの写真が飾られていて、ロイは立ち上がると近くに寄って見る。そこにはハボック自身の他、家族や友人と思しき人たちがたくさん写っていた。
「これは?大佐の兄弟?」
 ロイが指さした写真には今より少し若いハボックと、ハボックをそのまま小さくしたような少年が写っている。背の高いハボックに頭の上に圧し掛かるように腕を載っけられて、悔しそうな顔をしている少年は髪の色といい空色の瞳といい、ハボックにそっくりだった。
「ああ、ビリーっスね。末の弟っス」
 ハボックはそう言いながらサラダのボウルを持ってきてテーブルに置く。
「今学生なんスけど、もう兄を兄とも思わないっつうかホント小憎たらしい奴なんスよね」
 そう言って顔を顰めてみせるものの、その声に響くのは弟に対する情愛だ。ロイはくすりと笑うとたくさんの写真を順繰りに眺めながら言った。
「たくさん兄弟がいるんだな。五人……いや、六人?」
「オレ入れて六人兄弟っス。妹が二人と弟が三人」
「賑やかだな」
「賑やかなんて、そんなかわいいもんじゃなかったっスよ」
 キッチンに戻ったハボックがジュウジュウと美味しそうな音を立てながら答える。
「やかましいのなんのって。みんな一斉にしゃべるもんだからなに言ってんのか判んないし、自分の言ってること聞いて貰おうとするせいか、みんなすげぇ声がデカいの」
 うんざりしたようにハボックが言うのを聞きながらロイは棚の上に置かれた写真立てを手に取った。明るさの違いはあれど輝く金髪とブルーの瞳をした子供たちに囲まれて夫婦が椅子に腰掛けている。幸せそうな家族写真はそれを見る者も幸せにするようで、ロイは目を細めてその写真を見つめた。
「でも、一番声がデカかったのはお袋っスね。細くて小さいあの体のどこからそんなデカい声が出るのか、すっごい不思議だったっスもん」
「それで?お前とビリーがしょっちゅう怒鳴られてたってわけか?」
「……よく判ったっスね」
 情けなく眉を下げて言うハボックにロイはクスクスと笑う。その顔を眩しそうに見つめるハボックに気づいて、ロイは訝しそうにハボックに言った。
「なんだ?」
「いや……、そんな風に笑うのっていいなって思って。司令部じゃいつもおっかない顔してるし、それに口調も他人行儀じゃない」
「……ッ」
 そう言って嬉しそうに笑うハボックにロイはハッとして目を瞠る。気がつけば打ち解けて話をしていた事に気づいて、ロイは慌てて手に持っていた写真立てを戻した。
「失礼しました、大佐。ご無礼をいたしまして」
 背筋を伸ばして無表情を装うロイにハボックは慌てて手を振る。
「責めてるんじゃないっス。嬉しいんです、思いがけずこんな時間持てて」
 ハボックはにっこりと笑って言う。キッチンから次々と皿を運んでテーブルに並べて言った。
「さ、熱いうちにどうぞ。口に合うといいんスけど」
 そう言われてロイはテーブルにつく。皿から上がるいい匂いに腹の虫がグゥと鳴って、ロイは顔を赤らめた。
「どうぞどうぞ、どんどん食ってください」
 ハボックがクスリと笑って言う。ロイはほんの少しふて腐れたような表情を浮かべたが、勧められるままフォークとナイフを手に取り、カリッと焼いたチキンを一口大に切り分けた。添えられたソースをつけて口に運ぶ。ソースの甘さと肉の香ばしさが口の中に広がって、ロイは目を瞠った。
「……旨い」
「ホントっスか?よかったぁ」
 ロイの反応を食い入るように見つめていたハボックは、感嘆の響きがこもるロイの声にパッと顔を輝かせる。ハボックは温めたパンをロイの方へ押し出して言った。
「このパンも旨いんスよ。ルフランって店の───」
「知ってる、交差点の角にある店だろう?私もよく買いに行ってる」
「旨いっスよね、ここのパン」
 ハボックは言いながらパンを口に放り込む。ロイはジャガイモのスープを一口飲んで言った。
「これも大佐が?よくあの短時間で作れるな」
 感心したように言えばハボックが照れくさそうに笑う。
「ミキサーに放り込めば簡単っスもん。今度はちゃんと時間かけて煮込んだの、ご馳走しますから」
 そう言われてロイは驚いたようにハボックを見た。是非、と言うべきか、もう来ないと言うべきか悩んで、ロイは別のことを口にした。
「料理はよくするのか?」
「好きなんスよ。兄弟多かったからメシ作るのもお袋一人じゃ大変っしょ?妹たちよりオレの方がよく手伝ってましたから、色々教わったりして」
 その言葉を聞いてロイは棚の上の写真に目をやる。それに気づいたハボックが言った。
「煩かったけどいい家でしたよ」
「だろうな」
 こんな風に美味しい料理を作る家なら、それはきっと暖かく居心地のいい場所に違いない。目を細めて写真を見つめるロイにハボックが聞いた。
「少佐は?兄弟たくさんいるんスか?」
「私は一人っ子だ」
「ああ、そんな感じするっス」
「……どういう意味だ?」
 即座に納得したように言うハボックをロイはジロリと睨む。ハボックは慌てて両手を振って言った。
「いやっ、悪い意味じゃないっス!ほら、少佐ってこう、物静かっていうか、マイペースっていうか……。オレんとこみたいに兄弟多かったら絶対そうはならないなって」
「……ふん」
 とりあえず悪い意味ではないと判断して、ロイはパンを千切って口に放り込んだ。


 食後に手製のゼリーまで出てきたのにびっくりしながら、ロイはコーヒーのカップに口をつける。気がつけばもう結構な時間が過ぎていて、ロイはまだ知り合って日も浅い相手とこんな風に寛いで過ごしているのが信じられなかった。チラリとハボックを見ればそれに気づいたハボックが空色の瞳を細める。慌てて視線を逸らしてロイはコーヒーを啜った。
(仕事はともかく料理の才能はあるんだな)
 昼間食べたケーキも旨かった。出された夕飯も下手なレストランなんぞより数倍も旨くて、ロイはのほほんとした男を探るように見る。その時、低くつけたラジオが時間を告げて、ロイは慌てて立ち上がった。
「すまない、つい長居してしまった」
「構いませんよ。こちらこそ引き留めてしまって」
 ハボックはそう言いながらロイのコートを取ると羽織らせてやる。玄関へ行けば外へ出るロイについて出ながらハボックはジャンパーに腕を通した。
「送ります」
「平気だ、一人で帰れる」
「また変なのに絡まれたら困るっしょ」
 そう言えばロイがジロリとハボックを睨む。
「あれはお前が変なところにいるから気が散ったんだッ」
 不覚にも一発食らってしまったことをそう言い訳するロイにハボックが笑った。
「判ってますよ。オレが送りたいだけなんで」
 そう言ってアパートの階段を下りたハボックは、なんだかんだ言いながら結局ロイの家のすぐ近くまで来てしまう。流石に「もういい」と言うロイの言葉に足を止めてハボックは言った。
「今日はつきあってくれてありがとうございました」
「私こそ思いがけずご馳走になってしまった」
 ありがとう、と言うロイにハボックが笑みを浮かべる。
「今度はビーフシチュー作りますから、また来てください」
 その言葉に僅かに目を瞠って、だが行くとも行かないとも答えを返さずに、ロイはおやすみとだけ言う。そのまま背を向けるとハボックの視線を感じながら家へと帰っていった。


→ 第十章
第八章 ←