見毛相犬  第三章


「失礼します」
 そう言ってノックをすれば中から間延びした声が聞こえる。扉を開けて中へはいるとフュリーは手にした書類を差し出した。
「大佐、こちらの書類にサインお願いします」
 そう言いながら差し出せばハボックが書類をじっと見る。書類を受け取りもせず睨むように見つめるハボックに、何か拙い事でもしたかとフュリーが焦り始めた時ハボックが言った。
「マスタング少佐にサイン貰ってくんねぇ?」
「えっ?どうしてですか?」
 出張でハボックが不在の時ならいざ知らず、今ここにいるにもかかわらずロイの名を出すハボックにフュリーは目を丸くする。ハボックは困ったようにボリボリと頭を掻いて言った。
「いや、オレ、字、下手なんだよねー。マスタング少佐、字上手そうじゃん」
 確かにロイはその筆記の早さのわりに字が綺麗だ。だが、サインというのは字の上手い下手は関係ない筈だ。誰がサインをしたのかが判ればいいだけの話で、急いで書類を出したいフュリーはニコッと笑って言った。
「ご自身で思ってるほど下手って事はないんじゃないですか?気にし過ぎですよ、きっと」
「や、でもいっつも言われてんだもん。もうちょっと読める字書け、って」
 誰に、とは言わずにハボックがもごもごと呟く。フュリーはそれに構わずズイと書類を突きつけた。
「すみません、大佐。これ、急ぎなんです!サインくださいッ」
 眼鏡の奥の目を吊り上げてフュリーが言う。うっ、と仰け反ったハボックは嫌そうに書類を受け取ると、中身を確認もせずペンを取り上げた。
「………あっち向いてて」
 じっと手元を見つめてくるフュリーにハボックが唇を尖らせて言う。
「あ」
ついつい凝視していたことに気づいたフュリーが顔を背けると、ハボックは腕で隠すようにしながらガリガリとサインを書いた。そうしてその書類を丸めてフュリーに返す。
「出すまで見ないでね」
 僅かに目元を赤らめて言うハボックに礼を言うとフュリーは執務室を出た。バタンと扉が閉まった途端、パラリと巻かれた書類を広げたフュリーは目を丸くした。
「………ほんっとヘタクソ」
 サインの欄に書かれているのはミミズがのたうったとしか言いようのない文字の羅列だった。

「ハボック大佐、会議の時間ですが」
 ロイはノックをした扉に向かってそう声をかける。だが、返事がないのを訝しんで「失礼します」の声と共に開けた扉の向こうに、ハボックの姿はなかった。
「いない……」
 ホークアイが朝、スケジュールの確認をしたからこの時間に会議が入っていることは承知の筈だ。だが、もぬけの殻の執務室にロイは思い切り顔を顰めた。
「どこに行ったんだ、アイツ……」
 読んでおいてくれと言って渡した資料を読んだのかも怪しい。全部ロイに一任するとふざけた事を言ったしまりのない顔を思い出して、ロイは乱暴に扉を閉めた。
「少佐?どうかしたんですか?」
 眉間に皺を寄せて執務室の前に立っているロイにファルマンが聞く。ロイは眉間の皺をそのままにファルマンに視線を移して言った。
「逃げやがった」
「え?」
「会議だと判っている筈なのに」
 チッと舌を鳴らすとロイは足音も荒く司令室を横切る。
「少佐?」
「探しに行ってくる!」
 ロイは肩越しにそう怒鳴ると司令室から飛び出していった。

「あーあ、ヤだなぁ……これからもサインいっぱいしなきゃなのかな……」
 サインをしたくなくてロイに頼んでくれないかと言ってみたものの、ものの見事に一蹴され仕方なしにサインを書いた。丸めてその場ですぐには見られないようにしてはみたが、そんなのは時間の問題できっとすぐにあのミミズのような字が皆の目に晒されたことだろう。
「ああ、ヤダヤダ……」
 サインなんて誰が書いたところで変わらないではないか。とにかくこれからは全部ロイに頼むことにして、ハボックが気分転換に外へと出かけようと廊下を歩きだした時、背後から険しい声が聞こえた。
「ハボック大佐」
 その声に振り向けばロイが黒い目を吊り上げて立っている。「なんスか?」とハボックが尋ねれば、ロイは益々その綺麗な目を吊り上げて言った。
「会議の時間です。今朝、ホークアイ中尉がそうお伝えしておいた筈ですが」
「あ」
 言われてハボックは目を瞠る。それからヘラッと笑って言った。
「オレ、会議は嫌いっス。五秒で寝る自信あるっスから」
「好きか嫌いかは関係ありません。とにかく今すぐ会議室へ───」
「代わりに出ておいてください!オレ、今大っ嫌いな仕事一つやり終えて疲れてるんで、休憩してきますっ!!」
 ハボックはそう言うなり開け放たれた窓に駆け寄る。窓枠に手をついたかと思うとヒラリとそれを飛び越えてしまった。
「な……っ?!ここ、三階……ッ!」
 ギョッとしたロイが窓枠に飛びつけば、窓のすぐ傍まで張り出した木の枝に掴まったハボックの姿が見える。
「じゃあ、そう言うことで、よろしくっ、少佐!」
「ハボック大佐ッ!!」
 ハボックは猿よろしく枝を伝い降りるとあっと言う間に駆け去ってしまった。
「……な、なんなんだ、アイツは……っ」
 窓枠から身を乗り出すようにしてロイは、呆然とハボックが走り去った方角を見つめていたのだった。

(どうして、私が……ッ)
 ロイは会議室の椅子に腕を組んで座っていた。本来この会議はロイが出るものではなかったが、出席予定のハボックが逃亡したことを知ったホークアイがロイに会議に出るよう言ったのだった。
『ハボック大佐を取り逃がしたのは少佐の責任です』
 事の経緯を説明したロイにホークアイは冷たく言い放った。
『だが、三階の窓から飛び降りるなんて普通考えないだろうっ?』
『どんな事態にも咄嗟に対応出来なければ副官としての務めは果たせません。どうして後を追って飛び降りなかったんですか?』
『無茶言うなッ』
 サラリととんでもない事を言うホークアイにロイが喚く。
『とにかく、ハボック大佐がいないのでは仕方ありません。代わりに会議に出席なさってください、少佐』
『なんで私がっ』
 ロイとて会議など出たくない。だが、ホークアイはジロリとロイを見て言った。
『何か問題でも?』
『……ぅっ』
 鳶色の瞳で冷たく睨まれて、ロイは反論出来ずに会議に出席する羽目になったのだった。
(それもこれもあのバカ大佐のせいだ……ッ)
 あの後フュリーに聞いた話では字が下手だから書類にサインをしたくないとごねたらしい。それでもミミズがのたくるような字でサインをしたようだが、たかがサイン一つで大仕事をこなしたかのような事を言って逃げ出されたのではたまらなかった。
(これまでの上官もロクなのがいなかったが、アイツはその中でも最悪だッ)
 心の中でハボックの事を罵ればそれが怒気となってロイの体から滲み出る。
「あ……ええと、マスタング少佐、今までの話で何か問題が……?」
 司会役の事務官が恐る恐るそう尋ねればロイがジロリと睨んだ。
「…ヒィ…ッ、すみませんッ、すみませんッッ」
 結局。
 その日の会議はろくに話し合いも進まぬまま、早々に打ち切りとなったのだった。


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