風の行く先   第四十六章


「あーあ、退屈……」
 読んでいた雑誌をベッドサイドのテーブルに置いたハボックは、背に当てていた枕に体を預けてため息をつく。入院したばかりの頃は流石に傷が痛んで体を起こしているのさえ辛かったが、若い体はどんどんと回復して傷が大分癒えた今では暇を持て余す時間が長くなってきていた。
「リハビリったって限度あるし、雑誌読むのも飽きてきた……」
 ブレダ達が見舞いに来る度雑誌を差し入れしてくれるが、そもそもそんなに本を読むのが好きな方ではないのだ。
「早く退院したいなぁ。訓練してぇ……」
 ロイを護ると決めた今、こうしてベッドの上で過ごす時間は苦痛以外の何物でもない。一日ベッドの上で過ごせばその分体力も技術も落ちると思えて、ハボックは苛々と窓の外へと視線を向けた。段々と暮れていく空は次第に星が輝き始める。その輝きを見ればロイのことが思い出されて、ハボックは空をじっと見上げた。
「大佐、どうしてるかなぁ……」
 そう呟いた時、コンコンと病室の扉をノックする音が聞こえる。ブレダ達がまた来てくれたのかと、ハボックは笑みを浮かべて振り返った。
「どうぞ。今日も来てくれたのか、ブレ────」
 退屈してる自分を気にしてきてくれたのだろうと友人の名を口にしかけたハボックは、開いた扉から姿を現した人物を開けた口をそのままに見つめた。
「────ブレダ少尉達が来る予定だったか?それなら帰るが」
 扉を開けた途端飛び出してきた名前を耳にして、ロイが言う。そのまま閉まりそうになる扉に、ハボックは慌てて声を張り上げた。
「待って下さい!今日はもう誰も来ないですッ」
「だが今少尉の名を────」
「オレんとこに来るのはブレダ達ぐらいだからそう言っただけでっ、大佐、待って……ッ、アイタタタ……ッ」
 反射的にベッドから飛び降りそうになって、ハボックはズキリと走った痛みに身を折って呻く。ベッドの上で痛みに呻くハボックを見て、ロイは慌ててベッドに駆け寄った。
「おい、大丈夫かっ?」
「あはは、大丈夫っス……大佐、帰っちゃうと思ったから」
 思わず手を差し伸べてハボックの肩を支えたロイは、間近でにっこりと笑う空色にドキリとする。ぎこちなく手を離すロイを見上げてハボックが言った。
「見舞いに来てくれたんスね。嬉しいっス」
「────入院直後に来たきりだったからな。どの程度回復したか様子を見に来た」
 ロイは視線を逸らして殊更つっけんどんに言う。そんなロイを見つめてハボックが答えた。
「もう随分良くなったっス。オレ、頑丈に出来てるから。最近はベッドで寝てんのも退屈で」
 えへへ、と笑ってハボックが言う。その笑顔を真正面から見られずにロイがそっぽを向いていれば、ハボックがクンと鼻を鳴らした。
「いい匂い……もしかして、これ」
「あ、ああ。桃を持ってきたんだ」
 言われてロイは紙袋から桃を取り出してハボックに差し出す。大玉の桃を手にとって、ハボックは目を輝かせた。
「うわ、デカイ桃!それにすっげぇ甘い匂いがする!」
 いい匂い〜、と桃に顔を寄せて目を細めるハボックにロイはクスリと笑う。紙袋をテーブルに置いて言った。
「ナイフあるか?剥いてやろう」
「あ……、そこの棚に」
 ハボックが指さすのを見て、ロイは棚からナイフと皿を取り出す。「すみません」とハボックが差し出す桃を受け取って、ベッドサイドの椅子に腰掛けたロイは桃の皮を剥き始めた。
「うわぁ、すげぇいい匂いがするっス」
 つるつると皮を剥くロイの手元を見つめて、ハボックが言う。期待に目を輝かせたハボックは、ロイが皮を剥き終わったとみるや手を差し出した。
「一口サイズに切ってやるぞ?」
「待ちきれないっス。そのまま頂戴っ」
 子供のようなハボックの様子にロイは呆れたように笑いながらも桃を渡してやる。ハボックは受け取った桃を大事そうに両手で持つとカプリと齧りついた。
「甘ッ!なにこの桃っ!」
 口の中に広がる甘い果汁にハボックが目を丸くして言う。
「こんな桃、食べたことないっス」
「栽培が難しくて幻の桃なんて言われてるらしいよ。糖度が十七度もあるって話だ」
「そうなんスか?ホント、信じらんないくらい甘いっスよ。ジューシーで歯ごたえもしっかりあって、うわぁ、堪んないッ!」
 子供のように目をキラキラと輝かせて桃に齧りつくハボックをロイはじっと見つめる。大きな桃をあっと言う間に平らげて種までしゃぶるハボックにロイは言った。
「もう一つあるぞ、食うか?」
「えっ、ホントっスか?あ、でもいっぺんに食べるのは勿体無い気がする……明日までとっとこうかな」
 どうしようと真剣に悩むハボックの手を濡らした果汁が腕まで垂れていることに気づいて、ロイは目を細めた。
「そんなに旨かったか?」
「え?あ、はい、とっても!」
 尋ねる言葉にハボックがにっこりと笑う。そうか、と呟いたロイは次の瞬間、手を伸ばしてハボックの手首を掴んでいた。
「えっ?大佐?」
 いきなり手首を掴まれてハボックが驚いてロイを見る。掴んだ手首をグイと引き寄せて、ロイは腕に垂れた果汁に舌を這わせた。
「な……っ?ちょ……大佐ッ!」
 ギョッとしたハボックが慌てて腕を引こうとするのを赦さず、ロイは腕に垂れた果汁を舐めとってしまう。そのまま掌もぺろりと舐めて、ロイはパッと手を離した。
「汁が垂れてた」
「あ……どうも……」
 なんと言っていいか判らず、ハボックは呟くように礼を口にする。ロイはナイフを手に立ち上がると病室の片隅にある水道でナイフを洗い、タオルで拭いて棚に戻した。
「残りの桃もここに入れておくからブレダ少尉が来たときにでも剥いてもらえ」
 ロイはそう言ってハボックを見る。まん丸に目を見開いて見つめてくるハボックを見返してロイは続けた。
「元気そうで安心した。しっかり治して早く帰ってこい」
 それだけ言って病室を出ていこうとするロイにハボックはハッとする。
「あ、あのッ!桃、ありがとうございましたッ!早く治してすぐ戻るっスから!大佐の背中、オレが護るっスから!」
 張り上げる声に扉のところで足を止めてロイは振り向いた。ベッドの上、身を乗り出すようにして見つめてくる空色を見つめ返したロイはニッと笑ってみせる。
「ああ、待っている」
「っ、はいッ!」
 にっこりと満面の笑みを浮かべて頷くハボックに微かな胸の痛みを感じながら、ロイはそっと病室の扉を閉めた。


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