風の行く先   第三十九章


「大佐ッ」
 廊下を小走りに走る足音と共に呼びかける声が聞こえて、ロイは俯けていた顔を上げる。そうすればホークアイが廊下をこちらにむかってやってくるのが見えた。
「大丈夫ですか?大佐」
「私は大丈夫だ。だが、ハボックが……」
 そう言ってロイは廊下の先にある処置室の扉へ目を向ける。その視線を追うように扉を見つめたホークアイは、ロイに目を戻して言った。
「ここには私がおりますから、大佐は一度司令部へお戻りになって下さい。車を外に待たせてあります」
 酷い格好ですよ、と労るように見つめてくる鳶色をロイは見つめ返す。乾いた血がこびりつく手を見下ろして言った。
「いや、ここにいるよ。すまんが中尉、事後処理を頼めるか?」
「大佐」
「このまま戻ってもまともに判断がつかん。下手をすればウィルソンを燃やしてしまいかねない」
 苦く笑って言うロイにホークアイは目を瞠る。そっとため息を吐いて小さく頷いた。
「判りました。では私は司令部に戻ります。後ほどフュリー曹長に着替えを持ってこさせましょう。大佐、せめて顔を洗っていらして下さい」
「中尉」
 そう言って見つめてくるホークアイにロイは僅かに目を瞠る。それからフッと息を吐き出して頷くと立ち上がった。手近のトイレに入り手を洗う。乾いてこびりついていた血が水に流れていくのを見れば、不意に込み上がる喪失の不安にゾクリと背を震わせて、ロイは水を止めると急いで処置室の前に戻った。ホークアイは手を拭きもせず戻ったロイに取り出したハンカチをそっと握らせる。「すまん」と囁くロイに小さく首を振って司令部に戻るホークアイの背を見送って、ロイは再びベンチに腰を下ろした。膝の上で組んだ手を強く握り締め、ロイは処置室の扉が開くのを待った。


 どれくらい待っただろう。なかなか扉が開かない事にロイは苛々として何度も立ち上がっては扉の前に立つ。いい加減我慢の限界を越えて扉を燃やして中へ入ってしまおうかと思った時、フュリーが足早に廊下をやってきた。
「大佐っ」
「フュリー曹長」
「ハボック少尉の容態はどうですかっ?」
 そう聞かれてロイは処置室の扉へと目を向ける。まだ終わらないのかとフュリーも心配そうに眉を寄せた時、ガチャリと処置室の扉が開いた。ハッとして身構える二人の前に看護士がストレッチャーを押して出てくる。腕に何本も管を繋がれ横たわるハボックを見て、ロイは慌ててストレッチャーに駆け寄った。
「ハボックッ」
 ストレッチャーに縋りつくようにしてロイはハボックの顔を覗き込む。目を閉じた顔は白く生気がないように見えて、ロイは思わずハボックの頬に手を伸ばした。
「ハボック」
 ほんのりと温かいそこに、ロイはホッと息を吐く。その時、背後から呼ぶ声が聞こえて、ロイはストレッチャーから離れて振り返った。
「マスタング大佐」
「先生、ハボックの容態は?!」
 睨むように見つめてくる黒曜石に軍医は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに気を取り直して言った。
「弾は急所を外れていますが出血が酷い。暫くは絶対安静です」
「出血が……」
 軍医の言葉にロイは己の掌を見る。その手はもう血に濡れてはいなかったが、ロイの目にはハボックの血で真っ赤に染まる掌が見えた。ギュッと手を握り締めるロイに軍医は軽く頭を下げて行ってしまう。フュリーは立ち去る軍医を見遣り、ロイを見て言った。
「命に別状はない、って事ですよね……?」
「そう、だな」
「そっか……よかった、よかったですっ」
 フュリーはホッと息を吐いて笑みを浮かべる。その時になって漸く自分が紙袋を手にしていたことを思い出してロイに言った。
「大佐、これ、換えの軍服です。僕、司令部に戻ってハボック少尉は無事だって伝えてきますねっ!」
「あ、ああ。そうだな、そうしてくれ」
「本当によかった!みんな安心します!」
 フュリーは笑ってそう言うと廊下を駆けていった。


 フュリーから渡された紙袋を手にロイはハボックの病室へ向かう。そっと扉を開けたロイは、少しの間扉のところに立ち止まったままベッドに横たわるハボックを見つめた。それからゆっくりとベッドに近づく。ベッドの側まで来るとハボックの顔を覗き込んだ。
「ハボック」
 目を閉じたハボックの顔はやはり生気がないように見える。それがいつも見えている空の輝きを宿す瞳が瞼の向こうに隠れて見えていないからだと気づいて、ロイはハボックの瞳にそっと手を伸ばした。
「ハボック」
 思いの外長い睫に触れた指先でハボックの頬を撫でる。それから掌で白い頬をそっと包み込んだ。
「ハボック」
 もしあのまま失っていたらと思うと足下が崩れさっていくような気がする。
「ハボック、私は」
 透き通るように白いハボックの頬を撫でながら、ロイは漸く心の奥底に芽生え始めていた感情に気づいた。


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