風の行く先   第二十五章


「どうだった?」
「あ、うん。ちょっと疲れてたみたい」
「なー、そうだろ?大した理由じゃないんだよ」
 トレイを手に執務室から出てくればブレダが尋ねてくる。ハボックの答えが想像通りだったのだろう、「やっぱりな」と肩を竦めるブレダにハボックは苦笑して自席に着いた。
『旨いな』
 殆ど無意識に紡がれたロイの言葉を思い出してハボックは笑みを浮かべる。些細な事ではあったが、夕べの今日であんな風に言って貰えたのが正直嬉しかった。
(よし、頑張ろう)
 ほんの些細な喜びがこれからのロイとの関係を一歩踏み出す力になる気がする。ギュッと手を握ったハボックは書類を取ると目を通していった。


「……ええ、楽しみにしています。では後ほど」
 ロイはにこやかに言って受話器を置く。顔に張り付けていた笑みを消してフゥと一つため息を零した。
 結局今日は今一つ調子があがらず、普段なら処理が終わる筈の書類が残ってしまった。だが、残業してまで片づける気にはなれなくて、ホークアイが外出から戻ってこないのをいいことにロイは早々に仕事に見切りをつけると、数いるガールフレンドの中の一人と約束を取り付けたところだった。
「少し早いが構わんだろう」
 銀時計の針は終業時刻にはまだ達していなかったが、ロイはそう呟いて席を立つ。積み上げられた書類を見れば聞こえるホークアイの小言には無視を決め込んで、ロイは扉に向かった。
「ハボックに送らせよう」
 警備兵に任せてもいいところを、ロイはそう呟いて扉を開ける。ぐるりと部屋を見回してハボックの金髪の上で目をとめて言った。
「ハボック、車を頼む」
「えっ?────はい」
 ロイの声に驚いたように書類から顔を上げたハボックが、チラリと壁の時計を見てから席を立つ。文句あるかと睨む黒曜石に苦笑したハボックは、ブレダを見て言った。
「後から行くから。先行ってて」
「おう。いつもの店な」
 うん、と頷いてハボックは司令室を出ていく。二人のやりとりに顔を顰めたロイは、「おつかれさまでした」とフュリーが声をかけるのにも答えずハボックの後を追うように部屋を出た。玄関のステップの上で待てば、少しして車が走り込んでくる。運転席から降りたハボックが車のドアを開けるのを待って、ロイはステップを降りた。
「先に花屋に寄ってくれ。それから」
 と、ロイは夕べハボックとデートした店が入っているホテルへ車を回すように言う。「はい」と答えるハボックの顔を車のシートに腰を下ろしながら見上げたロイは、期待した表情がハボックの顔に見つけられない事に眉を顰めた。
「────ブレダ少尉と出かけるのか?」
 扉を閉めて運転席に回ったハボックの金髪を睨みつけるように見つめてロイは尋ねる。そうすればハボックが正面を見つめたまま答えた。
「ええ。小隊の連中と何人かで飲みに行こうって。折角今何もないっスから」
 事件や事故が起きればのんびり飲みに行くのもままならなくなる。今のうちに息抜きしておくのだと言うハボックの楽しげな声に唇を歪めて、ロイは言った。
「それは楽しそうだな。私は麗しいご婦人とデートだよ」
「そうみたいっスね」
 花屋に寄れと言うのだからわざわざ言われずとも判ることだ。どこか苦笑混じりの声にロイは益々眉間の皺を深めた。
「昨日のレストランはどうだった?」
「どう、って……旨かったっスよ?」
「そうか。それじゃあ今夜もそこへ行くことにしよう」
 ロイはわざと大きな声でそう言ってハボックの表情を覗き見る。ほんの少しハボックの表情が曇ったのを見て、漸くロイは満足そうな笑みを浮かべてシートに背中を預けた。
「大佐、これ」
「ああ」
 途中花屋に寄って立派な花束を買ってきたハボックがロイの隣のシートに花束を置く。それ以上は会話のないまま車を走らせたハボックが車をホテルのエントランスに寄せると、運転席を降りて車のドアを開けた。
「ご苦労だったな」
「いえ」
 花束を手に車から降りてロイは言う。ハボックに見せつけるように花束を抱え直して言った。
「ありがとう、ハボック。おかげでいい夜を過ごせそうだ」
「────」
「お前もいい夜を」
「……ありがとうございます」
 小さく答えて俯くハボックにロイは満足げに笑う。昨日初めて気づいた長い睫に吸い寄せられるように向けた視線を無理矢理剥がすと、ロイは花束を抱えてホテルのロビーへと入っていった。


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