風の行く先   第十一章


 ガンガンと錆の浮いた階段を音を鳴らして三階まで上がるとハボックは辿り着いた部屋の扉を見つめる。暫くぼんやりとアパートの部屋の扉を見つめていたが、やがて思い出したように鍵を取り出し扉を開けた。
「デート……大佐と」
 ふらふらと中に入ったハボックはドサリとソファーに腰を落とす。自分で呟いた言葉に動揺して、ハボックはカアッと顔を赤らめた。
 昼間ロイに「今夜一晩デートしてやる」と言われて、今日一日ハボックはすっかり上の空だった。書類を書いていても誤字脱字だらけ、煙草の灰を落として書類に穴を開け、訓練中には部下のパンチをまともに腹にくらって殴った部下を真っ青にさせてしまったほどだった。
「大佐とデート出来るなんて」
 勿論ロイがその後に言った言葉も忘れてはいない。今日のデートを最後にロイへの想いに区切りをつけ、その後は上司と部下として信頼関係を築いていくのだ。どんなにロイを想っていてもその気持ちは心の奥の奥へと封じ込めて二度と表に出してはならなくなる。それでも。
「今夜だけはオレのこと見て貰えるんだ」
 たった一夜限りでも、なにより惹かれたあの黒曜石が自分のことだけ見つめてくれると思えば胸が熱くなるのを止められない。
「せめて大佐と並んでてもみすぼらしいって思われないようにしないと」
 似合いの二人には見えなくても一緒に並んでいてロイに恥ずかしい思いだけはさせたくない。ハボックはまずは一日の汗を流そうと浴室へと入っていった。


「思ったより随分と遅くなってしまったな」
 ロイは懐中時計を開いて呟く。これから家に戻って着替えていては確実に遅刻だが、ハボックにちゃんとお洒落をしてこいと言った手前軍服のまま会うわけにはいかなかった。
「まあ仕方あるまい。今夜が最初で最後なんだから」
 女性の中にはロイの軍服姿に憧れを抱いているタイプもいたし、軍服のままレストランで食事をしてもさして抵抗はなかったが、ハボックと二人軍服ではなんだか仕事の延長のように思えてしまう。ロイは警備兵の運転する車で自宅に戻ると待っているよう命じて急いで支度を済ませた。
「花……用意してやるべきか?」
 男に花などどうかとも思ったが、これはあくまでデートなのだから用意してもおかしくはないだろう。なにより先日のデートで花束を手にした自分をハボックはうっとりと眺めていたではないか。既に約束の時間は過ぎていたが花を買うためだ、ハボックも文句は言うまい。
「すまんが先に花屋へ寄ってくれ」
「はい、大佐」
 レストランへ回してくれと告げておいた警備兵に先に花屋へつけるよう命じる。ロイは花屋でいつにも増して大きな花束を用意すると約束のレストランに向かった。


「おかしくないかな……」
 ハボックはもう何度目になるか判らないほど同じ言葉を呟きながら鏡を覗き込む。普段滅多に着ないジャケットは自分でも見慣れなくて、なんだか借り物の服を着ているような気分だった。
「いけない、もう行かないとっ」
 ロイを待たせるわけにはいかない。ハボックは時間を確かめ最後にもう一度鏡に己の姿を映してからアパートを飛び出す。段々と夜の装いへと移り変わる街中を歩いていけば誰もが自分の格好を見て笑っているような気がして、ハボックは俯き加減に通りを歩いていった。かなりのスピードで歩いていたせいもあって、約束の時間よりだいぶ早く目的の場所にたどり着く。ロイが指定したルーカスはイーストシティでも老舗のホテルの最上階にある高級感の漂うレストランだった。
「いらっしゃいませ、ご予約はいただいておりますでしょうか」
 ドキドキしながらエレベーターで最上階に上がれば、レストランの入口で声をかけられる。
「あっ、あのっ、待ち合わせをしてるんですけど……」
 そう言ってロイの名を告げてしまってから、もしかしてからかわれただけだったらなどと言う考えが浮かんできて、ギュッと手を握り締めたハボックの耳に店員の声が聞こえた。
「ご予約いただいております。こちらへどうぞ」
「あ……はいっ」
 促して先に立って歩き出す店員に、ハボックはホッと息を吐き出してついていく。店の一番奥の個室にハボックを通して、店員は部屋を出ていった。
「大佐、まだ来てないんだ」
 ホッとしたようながっかりしたような、如何とも表現のしようがない気持ちでハボックは呟く。席に座って待っていればいいのか、どうしたらいいのか判らないままハボックは窓辺に歩み寄ると微かに夕日の残照を残す空を見つめた。
「大佐……」
 これからここにロイがやってくるのだ。自分のためだけにロイがここにやってくる、そう思うとハボックは心臓が飛び出してしまいそうなほどドキドキと高鳴るのを感じた。
「な、なに話したらいいんだろう……」
 これまでだってロイと何気ない会話を交わしてきたはずだ。だが、二人きりでデートだと思うとちゃんと話が出来るのか全く自信がなかった。
「いつも通り……いつも通りでいいんだから……」
 ハボックはそう自分に言い聞かせながらロイの到着を待つ。五分、十分と時間が過ぎやがて約束の時間になったがロイは姿を見せなかった。
「どうしたんだろう、会議が延びてるのかな……」
 それとも急な書類でも舞い込んだか。仕事の後の約束だ、時間通りにならないのは同じ職場に勤めているハボックには嫌と言うほどよく判っていた。だが。
「来ないな……」
 十分が過ぎ二十分が過ぎてもロイが姿を現さないと流石に不安になってくる。きっと会議が延びているんだと自分に言い聞かせながら、ハボックはどんどん不安が大きくなっていくのを止められなかった。
「もしかして、やっぱりオレとデートなんて嫌になっちまったのかも……」
 なかなか想いを振り切れないでいるハボックのために一夜限りのデートを提案したものの、やはり男とデートなど嫌になってしまったのかもしれない。
「大佐……」
 不安で不安で胸が押し潰されてしまいそうで、ハボックの瞳に涙が浮かぶ。なんて女々しいとハボックが乱暴に手の甲で零れそうになる涙を拭った時。
「すまん、待たせたな」
 カチャリと扉が開く音がしてロイが姿を現した。


→ 第十二章
第十章 ←