風の行く先   第十章


「おはようございます、大佐」
「ああ、おはよう、ブレダ少尉」
 司令室の扉を開ければいつものように部下から朝の挨拶がかけられて、ロイはにこやかに答える。フンフンと鼻歌を歌いながら執務室に入ろうとするロイにブレダが言った。
「相変わらずいい夜だったみたいですね」
「まあな」
 羨ましそうに言う部下にロイはニヤリと笑って返す。その拍子に切なそうに見つめてくる空色に気づいて、ロイはそそくさと執務室に入って扉を閉めた。
「まったく、何とかならんか……?」
 女性に見つめられるのはいつものことだし男から熱い視線を送られる事も無いわけではない。だが、それが身近の部下だと言うだけでどうしてこうもその存在が重いのだろう。
「諦めさせるいい手だて、か……」
 ドサリと椅子に腰を下ろしたロイは仕事に取りかからずに考える。机に頬杖をついて「うーむ」と考えたロイは、夕べデートに向かう自分をじっと見つめてきたハボックの瞳を思い出した。
「一度願いを叶えてやるというのも手かもしれんな」
 自分もデートの相手の女性のように一緒に過ごしたいとハボックの瞳は訴えていた。それならば一度だけの限定で願いを叶えてやって、それを機にロイへの想いをすっぱりと切れというのはどうだろう。
「ふむ……結構いい手かもしれんぞ」
 ハボックの事を恋人としては考えられないだけであって、別に嫌いな訳ではないのだ。一夜の思い出として一緒に過ごすのならロイ自身にとってもさほど大変な事ではないだろう。
「よし、決めた。そうしよう」
 一晩ハボックとつきあって、その後は後腐れ無く上司と部下という関係に戻れるなら一番手っとり早くていい方法に違いない。ロイは自分の考えに満足して頷くと、これで気がかりなく仕事に取りかかれるとばかりに書類に手を伸ばした。


「毎晩毎晩楽しそうで、ホント羨ましいよな。俺なんてここんとこ全然女っ気ないっていうのに」
 モテる上司が執務室の扉の向こうに消えるとブレダが心底羨ましそうに言う。ハボックはそれには答えずキュッと唇を噛んで書類を手に取った。
(どうしたらこの気持ちに早くケリをつけられるんだろう)
 いつまでもウジウジと悩んでいては折角「忘れる」と言ってくれたロイの気持ちを踏みにじる事になってしまう。上司と部下としての信頼関係にまでヒビが入るような事になる前に、なんとかしなければならなかった。
(でも、どうしたらいいのか判んねぇ……)
 簡単に忘れられるものならこんなに悩んだりしない。そっとため息をついたハボックは、せめて日々の業務に支障が出るようなことだけはさけようと必死に目の前の書類に意識を集中した。


「これでよし、と……間違いはないよな」
 ハボックは書き終えた書類にもう一度目を通して呟く。時計を見れば二時間ほどが過ぎており、ハボックはサインを貰うついでにコーヒーを差し入れようと席を立って給湯室へと向かった。ロイの好みの熱さと甘さに調えたコーヒーをトレイに乗せて、書類を手にハボックは執務室の扉を叩く。「失礼します」と扉を開けて中に入るとカップをロイの机に置いた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう。いいタイミングだな」
 ロイは差し出されたカップに早速手を伸ばして口を付ける。いつもながら本当にいいタイミングで差し入れられると思いつつロイはハボックを見上げた。
「ハボック、お前、今夜の予定はどうなっている?」
「え?今夜っスか?特に何もないっスけど。……あ、もしかしてデートの時間、遅いんスか?」
 サインを貰おうと書類を差し出しながらハボックは答える。もしかしてデートの約束が遅い時間で、それまで車を出すのを待っていろという事かと尋ねればロイが言った。
「予定がないなら私が付き合ってやる」
「────え?」
 唐突な言葉の意味を理解できずにハボックがキョトンとする。そんなハボックにロイは苛々と繰り返した。
「つきあってやると言ってるんだ。今夜一晩、お前とデーとしてやる」
「えっ、あの、その……オレとデート、してくれるんスか?」
 突然の誘いを信じられず、ハボックが確かめるように言う。ロイはそれに頷いて言った。
「ああ、そうだ。その代わりそれできっぱり私への気持ちを切り替えろ。明日の朝になったらお前と私は単なる上司と部下だ。どうだ?悪い話ではないだろう?」
「……え?」
 ニヤリと笑って言うロイにハボックは咄嗟には答えられない。だが、ロイは構わず手帳を繰って今日の予定を確かめながら言った。
「夕方会議があるんだ。多少延びるだろうから、そうだな……、八時にルーカスでどうだ?軍服で来るなよ、最初で最後のデートなんだ。目一杯お洒落してこい」
「大佐……」
 さっさと予定を決めてしまうロイをハボックは呆然と見つめる。ロイはサインを認めた書類をハボックに返して言った。
「そうと決まったらとっとと仕事を片づけろ。遅刻したらデートはなしだぞ」
 それだけ言ってロイは「行け」と身振りで示す。まだ事態を飲み込めないままにハボックは書類を手にふらふらと執務室を出た。


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