| 空色のカノン 第九章 |
| 「あー、疲れた……」 ハアと大きなため息をつきながらハボックは司令室に戻ってくる。今夜は夜勤のフュリーが笑いながら言った。 「お疲れさまでした。やっと終わりですか?」 「そうだなぁ。書類まだあるけど、明日にしよう」 演習だなんだと結局一日バタバタしていて、書類仕事を済ませる時間がなかった。今から取りかかる気にはとてもなれず、ハボックは机の上に置かれたメモに目を通して二、三電話をかけると立ち上がった。 「大佐は?今日は会食あったっけ?」 「はい。場所は────」 「ああ、いいいい。確認しただけだから」 フュリーが調べてくれようとするのを留めてハボックは言った。 「じゃあ、帰るわ。夜勤頼むな」 「はい。お疲れさまでした」 にっこりと笑うフュリーに手を振ってハボックは司令室を出る。終業時間を疾うに過ぎて人が少なくなった廊下を歩き司令部の玄関を出ると、よく晴れた夜空を見上げた。 「どうすっかな」 馴染みの飲み屋で軽く飲みながら腹を満たそうかとも思ったが、なんだか気が進まない。結局司令部からの帰り道、ハボックは閉店前で割り引きになった惣菜を幾つか買い込んだ。アパートの外階段を音を立てて上り、部屋の扉を開けて中に入る。惣菜の袋をテーブルに置いてそのままシャワーに直行すると、髪と体を洗ってさっぱりとして出てきた。 ハボックは濡れた髪を拭きながらキッチンに行くと冷蔵庫からビールの缶を二本取り出す。それを片手にテーブルに置いた惣菜の袋を取り上げ、ソファーにドサリと腰を下ろした。 「ふぅ」 まずは一本目のビールを一息に飲んで、ハボックは大きく息を吐き出す。喉の乾きを癒したところで、もう一本のビールを開け、今度は惣菜を食べながらゆっくりと飲んだ。飲み食いしながら視線を動かせば棚の上に置いたバイオリンのケースが目に入る。それをじっと見つめたまま食事を続けていると、電話のベルが鳴り響いた。 「フュリーじゃねぇだろうな」 せっかくシャワーを浴びたと言うのに事件という言葉は聞きたくない。多少のビールは全く支障にならなかったが、今夜はもう働きたくなかった。 「はい」 それでも出ないわけにはいかず、ハボックは受話器を取る。誰だろうと受話器に当てた耳を澄ませば聞こえてきたのはブレダの声だった。 『ハボ?ああ、俺おれ』 「ブレダ?なに?事件じゃねぇだろうな」 『違うって』 心底嫌そうなハボックの声にブレダが苦笑する。じゃあなんだと尋ねれば、ブレダが言いにくそうに答えた。 『あのさぁ、エリーゼの話、大佐にしちまったよ』 「は?」 『お前、大佐がリクエストした例の曲、弾けないって言って帰っちまったんだって?なんか大佐がやけに気にして落ち込んでたからさ』 わりぃな、と言うブレダにハボックは思い切り眉を顰める。 「なんで大佐がお前に相談してんだよ」 エリーゼの事を話した事よりなにより、ロイがブレダに相談したことの方が気になる。剣呑なハボックの声にブレダはおいおいと声を上げた。 『俺だってほっといていいなら放っておくけどさ。仕方ねぇだろ、バイトのことで首突っ込んじまったんだから』 ブレダの面倒見がいいことはハボックもよく知っている。そんな性格に散々助けられてきた身としてはそれ以上文句も言えず、一度口を閉じるとハボックは恐る恐る尋ねた。 「大佐、なんか言ってた?」 『なんも。一応怒らないでやってくれとは言っておいたけどな。あと、お前が好きなのは大佐だとも言っといた』 「余計な事は言うな」 本当の事とはいえブレダに言われたと思うと妙に気恥ずかしい。赤くなった顔をゴシゴシととこすっていればブレダの声が聞こえた。 『まあ、とにかく一度大佐と話しとけよ。これでどうこうなるとは思わねぇけど』 「なってたまるか」 エリーゼのことをすっかり忘れていたわけではないが、日々の生活の中思い出す回数が減っていたことも事実だ。今のハボックには思い出の中のエリーゼより現実のロイの方が何倍も大切だった。 『じゃあな、一応知らせたから』 「ああ……ブレダ」 『んあ?』 切ろうとしたのだろう、雑音と共に声が聞こえる。ハボックは一呼吸おいてから言った。 「サンキュ」 『おう』 短い返事が返ってきて今度こそ電話が切れる。ハボックは受話器を置くと棚の上のバイオリンに視線を向けた。ゆっくりと近づき蓋を開け中のバイオリンをじっと見つめる。そっと愛おしむようにその美しい曲線を描く楽器を撫でるとケースから取り出した。そうして軽く音を合わせると徐にバイオリンを構え弓を翻した。 狭いアパートの部屋に静かにメロディーが流れていく。ゆったりと曲を弾き終え、ハボックは大きく息を吐き出した。バイオリンを手にハボックは窓辺に近づく。夜の窓ガラスは鏡のようで僅かに見える外の景色よりもハボックの姿をくっきりと映し出した。ハボックは暗い窓に映る己の中に子供の頃の自分の姿を重ね合わせる。エリーゼの事が好きだった子供の姿は、だがすぐに消えてガラスに映るのはロイを好きな今の姿だけになった。 「大佐……」 コツンとガラスに額を当て目を閉じる。そうすれば今朝のロイのどこか不安そうな顔が思い浮かんでハボックはため息をついた。 「なにやってんだかなぁ、オレ」 そう呟いて今度はゴンッと強くガラスに額を打ちつける。額を押しつけたままじっとガラスに映る己の目を覗き込んだ。 「エリーゼ、オレ、大佐が大好きなんだ。だから」 と、そこで言葉を切って一つ瞬く。 「もういいよね?」 そう言ってハボックは覗き込んだ瞳の中に答えを探し出した。 |
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