空色のカノン  第八章


 ガタガタと立ち上がる音にロイはハッとして周りを見回す。そうすれば会議を終えた出席者たちが書類を手に会議室から出ていくのが見えて、ロイは慌てて立ち上がった。
「寝不足でいらっしゃいましたか?大佐」
 傍らから声が聞こえてロイはギクリとする。こっそり唾を飲み込んで、ロイは笑みを浮かべると隣に座っていたホークアイを振り向いた。
「そんなことはないよ。どうしてそんなことを?」
 ニコニコと過剰なまでの笑みを浮かべるロイをホークアイが胡散臭げに見上げる。トントンと机の上の書類を揃えて立ち上がってホークアイは言った。
「心ここにあらずといった感じでしたので、睡魔にでもみまわれたのかと思いました」
「まさかそんな。ちゃんと受け答えしていただろう?」
「そうですわね」
 ロイの言葉にホークアイが笑みを浮かべる。その鳶色の瞳だけが笑っていないことに気づいて、ロイは背中を嫌な汗が流れるのを感じた。
「今日の案件はさほど難しいものでも重要なものでもありませんでしたから特に問題はありませんでしたが、次回は是非身を入れて会議に臨まれてください」
「わ、判った」
 顔の皮だけの笑みすら消して無表情にそう言われれば迫力も増すというものだ。ロイがコクコクと頷けば、ホークアイは資料のファイルを小脇に挟んで会議室を出ていってしまった。
「失敗した」
 最後に会議室を出ながらロイは呟く。一応会議の内容は聞いていたし、受け答えもしていたから他の出席者には気づかれなかっただろう。だが、流石にホークアイの目はごまかせなかったようで、ロイは小さくため息をついた。
「気になるなら直接聞けばいいんだ」
 思わせぶりなブレダの言葉も相まって、ロイはハボックがあの曲を弾きたがらない理由が気になって仕方なかった。それでもあんな風に帰られてしまえば、一晩たってわざわざ話を蒸し返すのも気が引けてロイがトボトボと廊下を歩いていれば背後からブレダの声が聞こえた。
「あー、やっぱまだ気になってるって顔ですね」
「ブレダ少尉」
 声に振り向けばブレダがやれやれといった様子で立っている。
「さっき中尉が不機嫌そうに歩いていったから、会議前に悪いことしたと思ってたんですよ」
 ロイの瞳に全くその通りだと言いたげな光が浮かぶのを見てブレダは苦笑した。
「中庭に行きましょうか」
 ブレダはそう言って近くの扉を指さす。それに頷いてロイは先に立って外へと出た。少し歩いて大きな木のところまでくるとその幹を背にするようにして振り向く。話を促すように見つめれば、ブレダが少し考える時間を稼ぐ為のように頭を掻いた。
「ええと、どこから話しますかね」
 と、ブレダは呟く。それから一つ咳払いをしてから話し始めた。
「ハボックにバイオリンを教えたのはエリーゼっていう十年上の女性でした。とても綺麗な人でね、バイオリン奏者としても期待されていたようです。たまたま入り込んだ庭先で彼女がバイオリンを弾くのを聴いて、ハボックは忽ち夢中になった。多分初恋だったんじゃないですかね」
 子供の頃のハボックの幼い恋の話。もう昔のことだと判っていても、ロイは胸の片隅がチクチクと痛むのを感じながらブレダの話に耳を傾けた。
「あの頃のハボックは体と心がアンバランスだったっていうか、体はニョキニョキデカくなっていくのに心はまだまだ子供で。まあ、そう言う俺も全然ガキだったですけど、まるでバイオリンでバランスとろうとするみたいに夢中で練習してました。エリーゼに弾き方教わって一緒にバイオリン弾くのが心底嬉しかったんでしょうね、外で遊び回ってばかりいたハボックが家にこもってバイオリンばかり弾いてたのにはみんな驚きましたけど、そのかいあってメキメキ上達していったんです」
 そう言ってブレダが懐かしそうに目を細める。まるですぐそこにエリーゼと幼いハボックがいるように感じて、ロイはそっと目を閉じた。
「そうやって過ごしていたある日、エリーゼが倒れたんです。後になって知りましたけど、将来を期待されたバイオリニストだったエリーゼがあんな片田舎で過ごしてたのは病気だったからなんですよ。ハボックは毎日エリーゼのところに通って彼女のためにバイオリンを弾いてた。“亡き王女のためパヴァーヌ”はエリーゼが好きだった曲なんです」
 それを聞いてロイは目を見開く。ブレダは木々の合間から見える空を見上げながら続けた。
「その頃まだハボックはその曲を弾けなくて、自分で楽譜買ってきて家で一生懸命練習してた。エリーゼに弾いて聞かせて早く元気になって貰うんだって。でも間に合わなかった。エリーゼに聞かせるために暫く彼女のところに通うのをやめてまで必死に練習して、やっと弾けるようになって行ったときにはエリーゼはもう亡くなった後でした」
 そう言ってブレダは空に向けていた視線をロイに向ける。大きく見開いた黒曜石を見つめて言った。
「ハボックはエリーゼのお墓の前で“亡き王女のためのパヴァーヌ”を弾いた。あの時ほどバイオリンの音色が哀しいと思ったことはありませんよ。弾き終えてハボックはもう二度とこの曲は弾かない、エリーゼのための曲だからって言ってました」
 それを聞いたロイの体がピクリと震える。ブレダは一つため息をついてから口を開いた。
「大佐。ハボックの事、怒んないでやってくださいね。それと今アイツが好きなのは間違いなく大佐ですから、そこんとこ判ってやってください」
「……ああ」
 そう言うブレダを見つめられず、ロイは視線を落として頷く。そんなロイになにを言うべきか迷って、結局ブレダはなにも言わずに戻っていった。
「エリーゼ、か……」
 そう呟いたロイの瞳からポツリと一粒涙が零れた。


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