空色のカノン  第六章


 ガチャリとアパートの扉を開けてハボックは中に入る。手にしたバイオリンケースを机の上に載せて、ソファーに腰を下ろすとため息をついた。
「あー、疲れた」
 バイオリンを弾くのは好きだし、もともと誰かと一緒に楽しく騒ぐのは大好きだ。断れない状況で引き受けたバイトではあったが、ハボックにとってこのバイトはとても楽しいものだった。とはいえ、やはり本来の仕事──それもかなりのハードな業務だ──を終えての夜遅いバイトは、体力自慢のハボックにも正直なかなかにしんどいものがあった。
「しかも大佐にバレちゃったし」
 バイトそのものの件もそうだが、バイオリンを弾ける事がバレてしまったのがなんとも恥ずかしい。余計な誤解を与えない為とはいえ、店にロイを連れてきたブレダに後できっちり文句を言っておかねばとハボックは思った。それでも。
『カッコよかった。光の中、ピンと背筋を伸ばしたお前がバイオリンを構えてて────綺麗でカッコよくて、私はっ』
「はっ、恥ずかしい……」
 店でハボックがバイオリンを弾くのを聴いた後でロイが言ったことを思い出して、ハボックは顔を赤く染める。大きな両手に赤くなった顔を埋めて、ハボックは「うー」と唸った。
「帰り道でもやたら言ってくれちゃったし」
 どうしてああも可愛いのだろう。普段はちょっと意地っ張りな所もあるロイだが、今夜はやけに思ったことを口にしていたのではないだろうか。恥ずかしくはあったがあんな風に言われればやはり悪い気はしない。それにロイのリクエストに答えてバイオリンを弾いたのは、店で客のリクエストで弾く何倍も楽しかった。
「まあ、大佐も喜んでくれたしな」
 ハボックがバイオリンを奏でる度黒曜石の瞳を輝かせて聞き入っていたロイの姿を思い浮かべてハボックは目を細める。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』
 その時、不意にロイが最後にリクエストした声が頭に蘇ってハボックは手に埋めていた顔を上げた。
『知らないか?』
 弾けないと言えばひどく残念そうにしていた。そんなロイにろくに説明もせぬまま逃げるように家を飛び出してしまったのだ。
「まずった」
 せめて代わりの曲の一つも弾いてくればよかった。ハボックはため息をついてソファーに背を預ける。目を細めてテーブルの上のバイオリンを見つめた。
「……エリーゼ」
 低く呟いて、ハボックはそっと目を閉じる。瞼の裏に浮かんだ細い姿を軽く首を振って追いやると、ハボックは立ち上がって足早に浴室へと入っていった。


「はあ」
 司令部に向かう車の中、ロイは深いため息をつく。夕べ、ハボックが突然帰ってしまって、仕方なしに一人ベッドに潜り込んだものの、ロイはなかなか寝付けなかった。
 ハボックがあんなに見事にバイオリンを弾ける事を知って、驚くと同時に感動してしまった。スポットライトを浴びてバイオリンを奏でるハボックは本当にカッコよくて、ロイは目を離すことが出来なかった。いつもならハボックに抱いている感情を素直に口に出来ないことが多いが、そんな普段の自分がどこかに吹っ飛んでしまうほどに店で見たハボックの姿はロイにとって衝撃的だったのだ。
 一緒に店から戻ってきて、ハボックがリクエストに答えて色々弾いてくれた時には本当に嬉しかった。嬉しくて楽しくて、こんな幸せな時間は他にないのではと思うほどだったのに。
「はあ」
 ロイは再び深いため息をついて車のシートに沈み込む。その時、車が司令部の正面玄関に着いて、運転していた兵が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの……着きました、マスタング大佐」
「え?……ああ」
 その声にロイは物思いから引き戻される。警備兵が開けた扉から降りると短いステップを上がり、のろのろと建物のの中へと入った。
(ハボックに会ったらなんて言おう)
 夕べはありがとうと言えばいいのだろうか。何となく気まずい別れ方をして、そんな風に言うのは嫌みに聞こえないだろうか。
 そう考えてロイは首をふるふると振る。
(別に喧嘩したわけじゃなし、ただリクエストを断られただけなんだし)
 その後すぐに帰ってしまったというだけなのだから普通にしていればいいのだ。ロイがそうと決めて丁度辿り着いた司令室の扉を開けようと手を伸ばせば、その一瞬先に扉が中から開いた。
「あ」
 開いた扉の向こうに立っていたハボックが、ロイの顔を見て一瞬目を見開く。だが、次の瞬間いつもの笑みを浮かべてロイに言った。
「おはようございます、大佐。夕べはお邪魔しました」
「ああ、おはよう。昨日は引き留めて悪かったな。今から演習か?」
 そう尋ねればハボックが頷く。
「午前中いっぱいいませんから」
「そうか。しっかりな」
 ロイの言葉にハボックはくだけた敬礼を返して行ってしまう。その背を見送ったロイはもう一度深いため息をつくと、肩を落として中に入っていった。


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