空色のカノン  第五章


「送りますよ」
 と、ブレダと別れてハボックはバイオリンケースを片手に言う。もう少し一緒にいたくてロイが素直に頷けば、ハボックはロイを促して歩きだした。コツコツと夜の住宅街に靴音が響く。傍らを歩くハボックをそっと見上げて、ロイはホッとため息を吐いた。
 バイオリンケースを手に歩くハボックはいつもとは全然雰囲気が違い、まるで別人のようだ。普段せっかくの長身が勿体無いように猫背で歩くハボックが、バイオリンを持っているせいなのかピンと背筋を伸ばして歩く様子はとても格好よくて、気がつけばロイはハボックの方ばかり見て歩いていた。
「あっ?!」
「っと、危ないッ!」
 足下をよく見て歩いていなかったせいで、ロイは躓いて転びそうになる。ハボックがグイと腕を引いてくれたおかげで転ばずにすんで、ホゥと息を吐くロイにハボックが言った。
「ちゃんと前見て歩かないと危ないっスよ?」
「だって」
「だって、なんスか?」
 ロイが唇を尖らせて反論するのにハボックが眉を顰める。当然のことにだってもくそもないと思っているとロイが言った。
「だって、カッコいいから、つい……」
 腕を掴まれたまま背けた顔を赤らめて言うロイの言葉に、目を見開いたハボックの顔も赤くなる。ぎこちなく腕を放して、ハボックはドカドカと歩きだした。
「なに言うかと思えば、恥ずかしいじゃないっスか」
 長い脚でもの凄い勢いで歩いていくハボックをロイは慌てて追いかける。ハボックに追いつくと小走りに歩きながら長身の男を見上げた。
「だって、本当のことだから────うわッ!」
 足下が疎かになって再び転びそうになるロイをハボックがもう一度支える。見上げてくる黒曜石を紅い顔で見返して、ハボックは言った。
「そんな風に言われると小っ恥ずかしいつうか照れくさいつうか」
「でも、本当だ」
 酷く素直に告げてくる星の輝きを宿す瞳に、ハボックはケースを持った腕で顔を隠す。可愛すぎだの食っちまいたいだのボソボソと言うハボックの腕に触れて、ロイは言った。
「腕を組んでもいいか?お前、歩くのが早くて」
「あっ、……すんません」
 照れくさくて思わずロイにあわせて歩くのを忘れていた。ボリボリと頭を掻いたハボックが腕を差し出せば、ロイが嬉しそうに腕を絡める。今度はゆっくりとした歩調で、二人は寄り添ってロイの家へと歩いていった。


「寄っていくだろう?」
「そうっスね、お邪魔します」
 また断られたらどうしようと、ほんの少し不安に思いながら口にした誘いの言葉に了承の返事が返ってきて、ロイはホッとして笑みを浮かべる。中に入りリビングのソファーを勧めると、ロイはハボックにずっと飲ませたいと思っていたワインを取り出した。つまみ代わりのチーズと一緒にハボックのところへ持っていく。グラスにワインを注ぎながらロイは言った。
「それにしても本当に驚いた。お前がバイオリンを弾けるなんて」
「あはは、ヘタクソっスけどね」
 グラスを軽くチンと合わせてハボックが答える。一口口に含んで旨いと目を丸くしているハボックにロイは尋ねた。
「士官学校時代に寮で弾いていたと言ってたな。子供の頃に習ったのか?」
「近所にね、十年上のお姉さんが住んでたんスよ。体があんまり丈夫じゃなくて、でも調子のいい時はいっつも窓辺でバイオリン弾いてた。こんな綺麗なものがあるのかってこっそり庭に入り込んで聴いてたら、ある時声をかけてくれてね。教わったんス、その人に」
 そう言って懐かしそうに目を細めるハボックをロイは見つめる。綺麗と言うのがバイオリンの音色なのかそれともその女性なのか、はっきりと判らないままに胸がチクリと痛むのを感じながらロイは言った。
「色々弾けるんだろう?弾いてみてくれないか?」
「えっ?ヘタクソっスもん」
「店であれだけ弾いてたじゃないか」
 店の客が送っていた拍手は決して義理ではない筈だ。ロイがそう言えば、ハボックは照れ隠しのようにワインを呷った。
「そりゃまあ一週間寝る間も惜しんで練習したっスから。それに客のリクエストは大体相場が決まってるし」
 練習してないのは断りましたと苦笑するハボックに、ロイは食い下がる。
「ヘタクソでもいいから。お前が弾くのを聴きたい」
 どちらかというと聴くよりバイオリンを弾くその姿を見たいという方が正解かもしれない。どうしてもとロイが言えば、ハボックはグラスを置いてバイオリンケースに手を伸ばした。
「下手でも文句言わないでくださいよ?」
「判ってる」
 文句などさらさら言う気はなかったが、ロイはそう答える。バイオリンを取り出し準備をするのを見つめながらロイは頭に浮かんだ曲名を口にした。
「愛の挨拶がいいな。弾けるか?」
「愛の挨拶……たぶん」
 頭の中で譜面を引っ張りだしているのだろう。宙を見つめながらハボックが答える。少しして立ち上がると、ハボックはバイオリンを構えた。
 バイオリンの弦に弓が触れて柔らかなメロディーが立ちのぼる。ゆったりとした曲調に聞き入っていたロイは、曲が終わるとパチパチと手を叩いた。
「恥ずかしいっスね」
「どうして?とても綺麗だった」
 顔を赤らめて言うハボックにロイが素直な感想を言う。
「じゃあ、次はあれだ。ハンガリー舞曲5番!」
「えっ?指動くかなぁ……」
 ロイがあげた曲名を聞いてハボックが眉を寄せた。それでもフンフンと口ずさみながら弓を軽く動かして曲のお浚いをする。それからスッと構えると勢いよく曲を奏で始めた。
「どわーっ、指動かねぇっ」
 何とか仕舞まで弾き終えてハボックは叫ぶ。恥ずかしいと一人身悶えるハボックに、ロイは笑って言った。
「次はチゴイネルワイゼンが聞きたい」
「はあっ?アンタ、鬼っスか。あんなの絶対後半指動かねぇっスよ!」
「えー」
「無理無理無理。ろくに練習してないんスから」
 ぶんぶんと首を振るハボックにロイは頬を膨らませる。
「じゃあ、リベルタンゴ」
「あ、それ好き」
 次のリクエストを聞いて、ハボックはパッと顔を輝かせて弓を構えた。スーッと息を吸い込むと同時に弓を翻す。情熱的なメロディを曲に合わせて体を揺すりながら奏でるハボックを、ロイはうっとりと見上げた。
「へへ、ちょっと間違っちゃった」
「そうか?判らなかったぞ」
 弾き終えて恥ずかしそうに笑うハボックにロイが言う。自分が聞きたいと思った曲をハボックも好きで自らバイオリンで弾いてくれたのが嬉しくて、ロイは笑いながら言った。
「もう一曲リクエストしてもいいか?」
「これで最後っスよ?」
 キリがなくなる前にとハボックが言えば、ロイはちょっぴり残念そうな顔をしながらも頷く。ロイは小首を傾げて考えてから気に入りの曲のタイトルを口にした。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」
そう聞いたハボックの目が僅かに見開く。構えていたバイオリンを下ろすと申し訳なさそうに言った。
「その曲はちょっと」
「知らないか?」
 随分と色々な曲を知っているようなのにと、ロイはがっかりする。ハボックはストンとソファーに腰を下ろして小さく首を振った。
「知ってますけど、その曲はダメなんス」
「え?」
 キョトンとするロイに構わず、ハボックは手早くバイオリンを片づけてしまう。バイオリンケースを手に立ち上がると言った。
「夜遅くにお邪魔してすんませんでした。オレ、帰りますね」
「えっ?でもっ」
「おやすみなさい、大佐」
 てっきり泊まっていくとばかり思っていたのに突然帰ると言われ慌てるロイの額にハボックはキスを落とすと、ロイが止める間もなく帰ってしまう。
「……どうして?あの曲に何かあるのか……?」
 思いがけない展開にロイは立ち上がることも出来ず、呆然とソファーに座っていたのだった。


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